アッシジ、サン・フランチェスコ聖堂と関連遺跡群

Assisi, the Basilica of San Francesco and Other Franciscan Sites

  • イタリア
  • 登録年:2000年
  • 登録基準:文化遺産(i)(ii)(iii)(iv)(vi)
  • 資産面積:14,563.25ha
  • バッファー・ゾーン:4,086.7ha
世界遺産「アッシジ、サン・フランチェスコ聖堂と関連遺跡群」、サン・フランチェスコ聖堂、ロッカ・マッジョーレ
世界遺産「アッシジ、サン・フランチェスコ聖堂と関連遺跡群」、アッシジのパノラマ。左がサン・フランチェスコ聖堂、右上がロッカ・マッジョーレ
世界遺産「アッシジ、サン・フランチェスコ聖堂と関連遺跡群」、サン・フランチェスコ聖堂。中央が鐘楼、右のバラ窓が上部聖堂、ほぼ中央で上部聖堂脇に見えるエントランスが下部聖堂のポータル
世界遺産「アッシジ、サン・フランチェスコ聖堂と関連遺跡群」、サン・フランチェスコ聖堂。中央が鐘楼、右のバラ窓が上部聖堂、ほぼ中央で上部聖堂脇に見えるエントランスが下部聖堂のポータル
世界遺産「アッシジ、サン・フランチェスコ聖堂と関連遺跡群」、サン・フランチェスコ聖堂、下部聖堂のアプスと翼廊の見事なフレスコ画
世界遺産「アッシジ、サン・フランチェスコ聖堂と関連遺跡群」、サン・フランチェスコ聖堂、下部聖堂のアプスと翼廊の見事なフレスコ画
世界遺産「アッシジ、サン・フランチェスコ聖堂と関連遺跡群」、サンタ・キアラ聖堂。バラ窓のあるファサードの左に飛び出しているのはフライング・バットレス、右はバットレス、奥が鐘楼、右の建物はクロイスター
世界遺産「アッシジ、サン・フランチェスコ聖堂と関連遺跡群」、サンタ・キアラ聖堂。バラ窓のあるファサードの左に飛び出しているのはフライング・バットレス、右はバットレス、奥が鐘楼、右の建物はクロイスター
世界遺産「アッシジ、サン・フランチェスコ聖堂と関連遺跡群」、サンタ・マリア・デッリ・アンジェリ聖堂内部。中央下がポルツィウンコラ
世界遺産「アッシジ、サン・フランチェスコ聖堂と関連遺跡群」、サンタ・マリア・デッリ・アンジェリ聖堂内部。中央下がポルツィウンコラ

■世界遺産概要

イタリア中部のウンブリア州ペルージャ県の古都アッシジは聖フランチェスコや聖キアラが生まれ活動した場所であり、ローマ・カトリックの托鉢修道会であるフランシスコ会の拠点となっている。同会の聖堂や修道院・聖域を中心に古代から現代まで数多くの歴史遺産が伝えられている。

○資産の歴史

古代、この地にはウンブリア人が住んでおり、アシシウムという都市が栄えていた。エトルリア人、ローマ人が徐々に勢力を広め、紀元前295年のセンティヌムの戦いに勝利するとローマ人がアシシウムを含むイタリア半島中部を支配下に収めた。ローマ人はスバシオ山麓に約2.3kmの城壁を建てて城郭都市を築き、フォルム(公共広場)やミネルヴァ神殿、テアトルム(ローマ劇場)、テルマエ(浴場)等を建設して町を整備した。89年にはローマ帝国の自治都市であるムニキピウムとなり、宗教的中心地として繁栄したが、476年の西ローマ帝国の滅亡とともに町は衰退した。

1182年、毛織物商の家にフランチェスコ(もともとの名前はジョヴァンニ)が生まれる。若い頃はかなりの放蕩者だったが、いつの頃からかキリスト教信仰をあつくし、貧者に金品を与えて病人に寄り添っていたという。1205年、サン・ダミアーノ教会を訪れたフランチェスコは十字架に祈っている最中に「私の教会を直しなさい」という神の声を聞く。サン・ダミアーノ教会を筆頭に打ち捨てられた教会堂の修復に乗り出し、私財を投げ打って自ら修復作業に汗を流した。家の財産を持ち出すフランチェスコを父がとがめると、衣服を含むすべてを返却して全裸になって出家したという。フランチェスコはベネディクト会の礼拝堂で半ば放棄され廃墟になっていたポルツィウンコラの側に粗末なあばら家を建て、礼拝堂を修復しながら生活を行った。イエスにならって粗衣をまとい、金銭や財産を持たず、食事は教会堂の修復をはじめとする肉体労働の報酬と托鉢で確保した。

やがて「教会を直す」という言葉の真意は物理的な教会堂の修復ではなく、教会の立て直しにあると悟ったフランチェスコは、1208年にリヴォトルトで仲間とともに「小さき兄弟会」を発足。翌年、ローマ(世界遺産)に旅立つと教皇インノケンティウス3世に謁見して口頭の許可を得て托鉢修道会の活動を開始した(正式な認可は1223年)。粗末な衣服を着た一同を見たインノケンティウス3世は訝しく思ったが、夢の中で啓示を受けて承認したといわれる。この男子修道会を第一会、1212年にキアラに発足させた女子修道会を第二会(クララ会。正式認可は1253年)、世俗の信徒を集めた修道会を第三会(正式認可は1447年)として計3会を創設。これらがいわゆるフランシスコ会だ(教義には第一会のみ)。

フランチェスコは動物や虫に聖書の一説を読み聞かせたり、両手両足と脇腹にイエスと同じ聖痕を得るなど多くの伝説を残して1226年に死去。1228年には教皇グレゴリウス9世によって早くも列聖(徳と聖性を認めて聖人の地位を与えること)された。

聖フランチェスコと同時代を生き、大きな影響を受けた女性が聖キアラだ。アッシジの裕福な貴族の家に生まれたキアラだが、母親の影響を受けて信仰心があつく、世の人々の苦難を悲しんで慈善事業に勤しみ、各地を巡礼して歩いていたという。1212年、両親に結婚を強要されると家を出て、フランチェスコのいるポルツィウンコラを訪ねた。貧困状態にあった小さき兄弟会に女性を迎え入れる体制は整っておらず、彼の指示でしばらくベネディクト会の修道院に滞在した後、サン・ダミアーノ教会で女子修道会であるクララ会を立ち上げた。こうして師とともにアッシジで清貧の道を歩み、フランシスコ会の黎明期を支えた。キアラも1253年に死去すると、2年後の1255年に教皇アレクサンデル4世によって列聖されている。

教会の腐敗が進む中でフランシスコ会は清貧の教えが共感を得て13世紀中に会員を数万人まで増やし、1288年には総長だったニコラウス4世が教皇に就任。会の修道士モンテ・コルヴィノが1294年に元の大都(現在の北京)で宣教を行うなど活動は世界に広がり、ローマ・カトリック最大の修道会に発展した。

中世初期に没落したアッシジだったが、商人たちの活躍で11~12世紀に回復。町を見下ろす丘に城塞ロッカ・マッジョーレを築いて城壁を延長し、町を拡張してサン・ルフィーノ大聖堂(アッシジ大聖堂)やサンタ・マリア・マッジョーレ教会などを建設した。

13世紀、アッシジは教皇領に組み込まれ、町は城壁の外にまで広がり、フランシスコ会の拠点として大々的な整備がはじまった。教皇グレゴリウス9世は1228年、北の丘に会の拠点となるサン・フランチェスコ聖堂の建設を開始。ゴシック様式の上部聖堂とロマネスク様式の下部聖堂からなる教会堂が完成し、周辺には鐘楼やサン・フランチェスコ修道院が配された。一方、南の丘には女子修道会クララ会の拠点としてサンタ・キアラ聖堂が建設された。

アッシジはたびたび宗主国を替えたが、15~18世紀にかけて町はさらに発展し、貴族がルネサンスやバロック様式の宮殿を建設し、ロッカ・マッジョーレやサン・ルフィーノ大聖堂が改修された。この時代にフランシスコ会が整備したのがサンタ・マリア・デッリ・アンジェリ聖堂だ。この聖堂はポルツィウンコラを収めるために建設された教会堂で、聖フランチェスコと聖キアラが出家した場所であり、聖フランチェスコが亡くなった場所でもあることから同会最高の聖地として祀られた。

19~20世紀にかけて新しい家々が建設されたが、歴史地区ではスバシオ山の赤茶けた石灰岩を使って従来通りの住宅が建てられ、中世・近世の美しい街並みが維持されている。

○資産の内容

世界遺産の構成資産は2件で、1件はサン・フランチェスコ聖堂やロッカ・マッジョーレ、サンタ・キアラ聖堂周辺の山地と市街を含んだ広大なエリアで、アッシジ北西のサン・グレゴリオや北のピエーヴェ・サン・ニコロ、東のアルメンツァノ、南東のカポダックアといった町々をも内包している。もう1件は狭く、サンタ・マリア・デッリ・アンジェリ聖堂とその施設、カピターノ・デル・ペルドーノ宮殿にほぼ限られている。

サン・フランチェスコ聖堂および修道院は教皇グレゴリウス9世が1228年の列聖とほぼ同時に建設を開始した宗教コンプレックスだ。イタリアのキリスト教史の中でも最重要の人物のひとりにふさわしいものにしようと最先端のゴシック様式を採用し、教会堂は1253年に奉献された。コンプレックスは主に上部聖堂、下部聖堂、修道院で構成されている。上部聖堂はラテン十字形・単廊式(身廊のみで側廊を持たない様式)の教会堂でイタリア・ゴシックの傑作として名高い。東ファサードのバラ窓と西のアプス(後陣)のランセット窓をはじめ、窓は美しいステンドグラスで彩られており、身廊・アプス・トランセプト(ラテン十字形の短軸部分)のいずれも見事なフレスコ画で覆い尽くされている。フレスコ画を描いたのはイタリア最高のゴシック画家と謳われるチマブーエを筆頭に、匿名画家マエストロ・オルトレモンターノやヤコポ・トリーティ、フィリッポ・ルスティといった当代随一の画家たちで、イエスや使徒、聖フランチェスコの人物像や物語を艶やかに描き出した。下部聖堂は上部聖堂の地下に築かれたラテン十字形の地下聖堂で、ロマネスク様式の構造をベースにバラ窓を持つポータル(玄関)や尖頭アーチなどゴシックの要素が加えられている。身廊やアプスの面積は上部聖堂と変わらないが、高さが低い代わりに8堂の礼拝堂とクリプト(地下聖堂)を持つためかなり広くなっている。アプス、トランセプト、ポータル、教皇の祭壇とフレスコ画で覆われており、チマブーエやジョット・ディ・ボンドーネ、シモーネ・マルティーニ、ピエトロ・ロレンツェッティといった巨匠の作品であふれている。大理石で覆われたクリプトには聖フランチェスコの墓があり、レオーネ、ルフィーノ、マッセオ、アンジェロという最初期の同志の墓が共に収められている。鐘楼はロマネスク様式で1239年に建設され、フランチェスカと呼ばれる鐘を中心に7つの鐘を有している。教皇シクストゥス4世のクロイスター(中庭を取り囲む回廊)は上下二層の柱が立ち並ぶロマネスク様式のクロイスターで、近郊のスバシオ山で採れたピンクと白の石を並べたポリクロミア(縞模様)が見られる。ピンクの石やポリクロミアはアッシジの建造物のひとつの特徴となっている。

ロッカ・マッジョーレは山頂に立つ城塞で、12世紀以前から要塞や砦が築かれていた。神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世や教皇インノケンティウス3世らの改修を経て1356年にインノケンティウス6世が再建し、1458年にピウス2世によって現在の形が完成した。この過程で南東のロッカ・ミノーレなど周囲の砦や塔を結んでアッシジを守る防塞線が構築された。

サンタ・キアラ聖堂および修道院は聖キアラに捧げられた宗教コンプレックスだ。聖キアラの遺志は女子修道会クララ会に引き継がれたが、その拠点として1257~65年に建設された。教会堂はゴシック様式でラテン十字形・単廊式の教会堂で、特に身廊の横に飛び出したバットレス(控え壁)やフライング・バットレス(飛び梁)が特有だ。主祭壇には聖フランチェスコが最初に神の声を聞いたというサン・ダミアーノの十字架が収められているほか、クリプトには聖キアラの墓がある。かつて内部はフレスコ画で覆われていたが、地震等で大幅に減り、マエストロ・エスプレッシオニスタやマエストロ・サンタ・キアラといった匿名職人によるフレスコ画や絵画が部分的に残されている。

サン・ダミアーノ教会および修道院は聖フランチェスコが1205年に「私の教会を直しなさい」という神の声を聞いた場所で、この教会堂の十字架(サン・ダミアーノの十字架)に祈りを捧げている最中に啓示を受けたという。1212年には家を出たキアラがこの教会堂を拠点にクララ会を発足させた。1257年にクララ会はサンタ・キアラ聖堂に移転するが、このときサン・ダミアーノの十字架も持ち運ばれた。建物はロマネスク様式でゴシック様式の改修を受けており、14世紀のフレスコ画などが残されている。

サン・ルフィーノ大聖堂あるいはアッシジ大聖堂の周辺は古代都市アシシウムのフォルムがあった場所で、大聖堂の場所にはかつて神殿が立っていたが、キリスト教が広がると教会堂に改修された。11世紀半ばにはジョヴァンニ・ダ・グッビオの設計でロマネスク様式の教会堂が建設され、13世紀にゴシック様式で改修されて完成し、1253年にインノケンティウス4世によって奉献された。聖フランチェスコや聖キアラもここで洗礼を受けたと伝えられており、前者はここで説教も行っている。内部は16世紀にルネサンス様式、17世紀にバロック様式の改修を受けているが、特にサクラメント礼拝堂はバロック様式の装飾で覆われた見事な祭壇と天井画で知られる。

リヴォトルトの聖域は聖フランチェスコとその仲間が1208年に最初に定住した場所で、小さき兄弟会発足の地となった。小さな石造のあばら家だったが、15世紀に礼拝堂が建設され、16~17世紀に教会堂と修道院に改築された。1832年の地震を受けて損壊すると、現在見られるゴシック・リバイバル様式で再建された。教会堂の内部にはふたつの部屋を持つ小さなあばら家が再興されている。

カルチェリ庵はフランチェスコと仲間たちがしばしば訪れたスバシオ山中の隠れ家で、山腹の洞窟を利用して瞑想を行った。こうした修行は古代末期~中世初期にかけて初期キリスト教の信者によってすでに行われていたという。1400年頃にシエナのベルナルディーノによってサンタ・マリア・デッラ・カルチェリ教会と修道院が建設された。その後も数世紀かけて施設・設備が調えられて現在に至っている。

サンタ・マリア・デッリ・アンジェリ聖堂は至宝ポルツィウンコラを保護するために教皇ピウス5世が建設を命じ、1569~1679年に建設された。マニエリスム様式で築かれたが1832年の地震で損壊し、ファサードは新古典主義様式で再建されたが、20世紀に元の様式に戻された。全長126m・幅65mを誇るラテン十字形・三廊式(身廊とふたつの側廊からなる様式)の巨大な教会堂で、十字形の交差廊にドームを掲げている。ポルツィウンコラは4世紀にパレスチナのキリスト教隠者が築いたと伝わる小さな礼拝堂で、6世紀にはベネディクト会を開いたヌルシアのベネディクトゥス(聖ベネディクトゥス)の所有となった。聖フランチェスコが「教会を直せ」という神の言葉を聞いて修復した3番目の教会堂・礼拝堂で、家を出た聖フランチェスコはこの礼拝堂の側に粗末な小屋を建てて生活したという。1211年頃、ベネディクト会から聖フランチェスコに贈られ、小さき兄弟会の拠点となった。また、家を出た聖キアラを迎えた場所でもあり、聖フランチェスコがイエスとマリアから啓示を受けた場所ともいわれる。晩年、死を悟った聖フランチェスコはポルツィウンコラの地に戻り、本聖堂のトランシト礼拝堂で亡くなった。ポルツィウンコラは平面7×4mほどで、内部は14世紀の画家イラリオ・ダ・ヴィテルボ、ファサードは19世紀のヨハン・フリードリヒ・オーファーベックの描いたフレスコ画で彩られており、イエスや聖フランチェスコの物語が表現されている。なお、聖フランチェスコの遺体はサンタ・キアラ聖堂に埋葬され、1230年にサン・フランチェスコ聖堂に移送された。なお、隣接のカピターノ・デル・ペルドーノ宮殿はポルツィウンコラ巡礼に訪れた巡礼者を収容するための施設で、ロッジア(柱廊装飾)が美しい赤レンガ造の建物で1615~20年に建設された。

これ以外に、紀元前30年頃に建設されたミネルヴァ神殿のファサードとバロック様式の内装を持つサンタ・マリア・ソプラ・ミネルヴァ教会、ローマ時代の初期キリスト教時代の教会堂の跡地に11~12世紀に建設されたロマネスク様式のサンタ・マリア・マッジョーレ教会、10世紀にベネディクト会によって建てられ13世紀にゴシック様式で改修されたサン・ピエトロ教会など、数多くの見所がある。

■構成資産

○アッシジ、サン・ダミアーノ、カルチェリ庵、リヴォトルトの聖域の歴史的景観

○サンタ・マリア・デッリ・アンジェリ聖堂とカピターノ・デル・ペルドーノ宮殿

■顕著な普遍的価値

○登録基準(i)=人類の創造的傑作

サン・フランチェスコ聖堂をはじめ人類の創造的な才能を示す数多くの傑作を有し、ヨーロッパや世界の美術史のひとつの規範となった。

○登録基準(ii)=重要な文化交流の跡

各地で芸術的・精神的な交流を行ったフランシスコ会の活動は世界の芸術や建築の発展に大きく寄与した。

○登録基準(iii)=文化・文明の稀有な証拠

アッシジは古代のウンブリア・ローマの時代から中世を経て現代に至るまで一貫して聖域として発展を続けた稀有な都市であり、文化的景観や宗教的建造物群、ミュニケーション・システム、伝統的土地利用などにそれがよく表れている。

○登録基準(iv)=人類史的に重要な建造物や景観

アッシジの建造物群は美術史上において重要な役割を果たしたが、中でもサン・フランチェスコ聖堂は芸術と建築の発展に大きな影響を与えた際立った例である。

○登録基準(vi)=価値ある出来事や伝統関連の遺産

フランシスコ会発祥の地であるアッシジは中世以来、フランシスコ会の信仰と普及に関する世界的な活動の拠点となっており、他の宗教や信仰に対してさえ平和と寛容を掲げる普遍的なメッセージを発しつづけている。

■完全性

資産は顕著な普遍的価値を表現するために必要なすべての要素を含んでいる。アッシジはローマ時代の基礎の上に築かれており、層をなして積み重なるさまざまな時代の歴史遺産が保存されている。資産は景観とともにこの文化遺産の特徴を包括的に表現しており、いまなお視覚的効果を高いレベルで維持している。特に歴史地区にたたずむサン・フランチェスコ聖堂と関連の建造物群はヨーロッパや世界の芸術に大きな影響を与えたフランシスコ会の拠点であり、この地域を特徴付けている。

こうした歴史的な都市構造に対する脅威としてアッシジと周辺のウンブリア地方で古くから問題となっている地震が挙げられる。また、アッシジはイタリアの主要観光地のひとつであり、バチカンに次ぐキリスト教巡礼地であるため、観光圧力も懸念材料となっている。

■真正性

アッシジはその真正性を驚くほど高いレベルで維持している。都市構造はさまざまな時代の影響を反映しており、たとえば中世の防衛システムが古代ローマの建造物の上に築かれているようにウンブリア・ローマの証拠はその後の都市プロジェクトの中に保存されている。現在の都市形態は主に15世紀後半から18世紀にかけて発展したもので、20世紀半ば以降、新しい建造物はほとんど築かれていない。ローマ都市は中世の時代にも使用されていた古代の道路システムと土地区画とともに市壁の外まで続いている。町の北と東に広がる森と自然のエリアには修道院の建造物群と隠れ家がたたずんでおり、サン・フランチェスコ聖堂と関連した森林もまだ残っている。建造物群や文化的景観が重要であるだけでなく、チマブーエやジョットといった巨匠による卓越した芸術作品が保存されていることも特筆に値する。

古代から現代まで多くの建造物が石灰岩で築かれているが、これがアッシジの独特な石造建築を特徴付けており、さまざまな開発期間を通じて建築様式とともに統一性を生み出している。アッシジはフランシスコ会とキリスト教巡礼地の精神的な中心として中世以来の役割を演じつづけている。

近年の地震によってサン・フランチェスコ聖堂のヴォールト天井の一部が破損するなど被害がもたらされたが、建物と重要な芸術作品はその後、修復作業の対象となった。図書館や博物館、アーカイブの膨大な歴史資料は個々の建造物と歴史地区全域に関する貴重な情報を提供している。

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