グラーツ市-歴史地区とエッゲンベルグ城

City of Graz - Historic Centre and Schloss Eggenberg

  • オーストリア
  • 登録年:1999年、2010年重大な変更
  • 登録基準:文化遺産(ii)(iv)
世界遺産「グラーツ市-歴史地区とエッゲンベルグ城」、中央は歴史地区のハウプト広場、ドームはラートハウス
世界遺産「グラーツ市-歴史地区とエッゲンベルグ城」、中央は歴史地区のハウプト広場、ドームはラートハウス
世界遺産「グラーツ市-歴史地区とエッゲンベルグ城」、シュロスベルクの時計塔と歴史地区の街並み
世界遺産「グラーツ市-歴史地区とエッゲンベルグ城」、シュロスベルクの時計塔と歴史地区の街並み
世界遺産「グラーツ市-歴史地区とエッゲンベルグ城」、ラントハウスの中庭のロッジア
世界遺産「グラーツ市-歴史地区とエッゲンベルグ城」、ラントハウスの中庭のロッジア (C) Andrew Bossi / Creative Commons CC-BY-SA-2.5
世界遺産「グラーツ市-歴史地区とエッゲンベルグ城」、グラーツ大聖堂。手前が身廊、中央奥が主祭壇
世界遺産「グラーツ市-歴史地区とエッゲンベルグ城」、グラーツ大聖堂。手前が身廊、中央奥が主祭壇 (C) Thomas Ledl
世界遺産「グラーツ市-歴史地区とエッゲンベルグ城」、フェルディナント2世霊廟
世界遺産「グラーツ市-歴史地区とエッゲンベルグ城」、フェルディナント2世霊廟 (C) Pedro J Pacheco
世界遺産「グラーツ市-歴史地区とエッゲンベルグ城」、エッゲンベルク城
世界遺産「グラーツ市-歴史地区とエッゲンベルグ城」、エッゲンベルク城 (C) Anna Saini
世界遺産「グラーツ市-歴史地区とエッゲンベルグ城」、エッゲンベルク城の惑星の間
世界遺産「グラーツ市-歴史地区とエッゲンベルグ城」、エッゲンベルク城の惑星の間 (C) Allie Caulfield

■世界遺産概要

グラーツは神聖ローマ帝国やオーストリア帝国の南部の主要都市としてありつづけ、ハプスブルク家の繁栄とともに発展した。デザイン都市としても知られ、中世から近代にかけてゴシックやルネサンス、バロック、ロココなど中央ヨーロッパや地中海ヨーロッパで発達した建築様式と芸術文化が花開いた。なお、本遺産は1999年に「グラーツ市-歴史地区」として世界遺産リストに登録され、2010年にエッゲンベルク城を加えて拡大され、現在の名称となった。

○資産の歴史

グラーツの歴史は新石器時代までさかのぼる。中世に入って町を見下ろすシュロスベルクの丘に砦が建設され、スラヴ語で砦を意味する「グラデツ」と呼ばれてその名前の由来となった。やがてオーストリア公国の南部の交易都市として発展した。

神聖ローマ帝国では1250年代~73年に皇帝不在の大空位時代を迎えるが、イングランドやフランスの王家が皇帝位を狙ったため選帝侯(ドイツ王選出権を持つ諸侯。ドイツ王が教皇の承認を経て皇帝となった)たちはスイスの小領主だったハプスブルク家のルドルフ1世を皇帝に選出する。ルドルフ1世はボヘミア(現在のチェコ西部)と戦い、オーストリアを奪って本拠地をウィーン(世界遺産)に遷した。グラーツもその所領となり、特に分家であるレオポルト家の本拠地となった。

1452年に皇帝位に就いたフリードリヒ3世はシュロスベルクの丘にグラーツ城を築き、麓にゴシック様式の聖エギディウス教会(現・グラーツ大聖堂)とフリードリヒスバウ宮殿(現・王宮)を建設してふたつを接続した。1453年にイスラム教を奉じるオスマン帝国がビザンツ帝国(東ローマ帝国)を滅ぼすとヨーロッパ諸国は震撼し、グラーツの城壁も拡張された。

フリードリヒ3世の息子マクシミリアン1世は、「戦争は他家に任せよ。幸多きオーストリア、汝結婚せよ」と各地の名家と結婚政策を進め、ブルゴーニュ、スペイン、ポルトガル、ハンガリー、ボヘミアなどの国々を手に入れた。1480年、オスマン帝国が来襲するが、これを撃退。マクシミリアン1世は大砲に対抗できるように城を大幅に改修・増築した。また、マクシミリアンバウ宮殿を建設したが、王宮に残る「和解の階段」のある階段塔はこの宮殿の一部だったものだ。

マクシミリアン1世の孫であるカール5世の時代、1529年にオスマン帝国に帝都ウィーンを包囲されたものの(第1次ウィーン包囲)、カール5世はなんとかこれを撃退した。カール5世と息子のフェリペ2世の時代にハプスブルク家の威光は南北アメリカ大陸からアジアのフィリピンに達し、つねに所領のいずれかに太陽が照るという「太陽の沈まぬ帝国」が完成した。

16世紀、フェルディナント1世とその息子のオーストリア大公カール2世の時代、グラーツはルネサンス様式で改装された。最たる例がイタリアの建築家ドメニコ・デッラリオによるラントハウス(州庁舎)で、特に中庭のロッジア(柱廊装飾)の美しさで知られる。カール2世は建築家ピエトロ・フェラボスコの設計でカールスバウ宮殿(現・王宮)を建設し、ドイツ語圏で最古の学校であるイエズス会神学校を開学した。いずれも建物はルネサンス様式だ。さらに、1585年にグラーツ大学を開設し、プロテスタントを追放したことでも知られる。

1619年にフェルディナント2世が居城をウィーンに遷すと、グラーツの繁栄は陰りを見せた。マウソレウムはフェルディナント2世が建設を命じた自身と家族の廟で、ルネサンスとバロックの過渡期にあたるマニエリスム様式となっている。設計は建築家ジョバンニ・ピエトロ・デ・ポミス、内装は巨匠ヨハン・ベルンハルト・フィッシャー・フォン・エルラッハだ。17~18世紀はルネサンス様式やバロック様式の建物が盛んに建てられた時代で、特にアッテムス宮殿はグラーツのバロック建築の最高傑作とされる。また、1786年には聖エギディウス教会が大聖堂となり、バロック様式に改装されている。

1797年にナポレオン率いるフランス軍が来襲。1800年代にフランス軍はたびたび侵入し、グラーツ城が落ちることはなかったものの都市は占領された。1809年にグラーツ城の撤去が決定し、フランス軍によって城壁や宮殿が破壊された。グラーツ市民が町のランドマークである時計塔と鐘楼を購入したため、この2棟は破壊を免れた。ナポレオン戦争を受けて1806年に神聖ローマ帝国が消滅。最後の神聖ローマ皇帝フランツ2世は皇帝位を廃位し、代わりにオーストリア大公国をオーストリア帝国に移行してオーストリア皇帝フランツ1世を称した。

そのフランツ1世の弟がヨハン大公だ。政争や戦争を目の当たりにしたヨハン大公は都市生活より山での生活を愛し、しばしばグラーツのあるシュタイアーマルクの山々にこもった。山中、トプリッツ湖畔で出会ったアンナに惹かれ、皇位継承権を返上して10年越しの恋を実らせて結婚。ふたりはグラーツを拠点にワインなど農業の振興や学校・鉄道の建設を行い、地域経済の向上に貢献した。ヨハン大公が1811年に国立博物館として創設したのがヨアネウムで、シュタイアーマルク州立博物館や州立図書館なども設立している。シュロスベルクが公園になったのもこの時代だ。ハウプト広場に大公像が立っているようにヨハン大公は市民に愛され、「シュタイアーマルクのプリンス」と讃えられた。

第1次世界大戦でオーストリア=ハンガリー帝国は解体され、共和政に移行してハプスブルク家の支配は終焉を迎えた。しかし、グラーツはデザイン都市としてありつづけ、ユーゲントシュティール(ドイツ版アール・ヌーヴォー)やモダニズム、ポストモダン(ポスト・モダニズム)の新しい建築が築かれた。一例が軟体動物のようなデザインで「フレンドリー・エイリアン」と称されるクンストハウスだ。

○資産の内容

世界遺産の構成資産は2件で、歴史地区とエッゲンベルグ城となっている。歴史地区は左岸(東岸)のシュロスベルクからムール川を渡った右岸(西岸)の一部地域までで、グラーツ大学などは含まれていない。

シュロスベルクは古代から要塞や城塞が築かれていた場所で、19世紀はじめにフランス軍によって城壁が解体されるまで一度も落ちたことのない難攻不落の城としてありつづけた。南に立つ時計塔はシュロスベルクでも最古級の建造物で、もともと城塞の塔として13世紀頃に建設された。16世紀半ばに改修されて高さ28mを誇る現在の形になり、時計は1712年に設置された。八角形の鐘楼は頂上に近いシュロスベルク中央部に立つ塔で、高さ34mを誇る。1588年にカール2世が建設したもので、内部には直径約2m・重さ約4.6tを誇るリーゼルと呼ばれる鐘が据えられている。これ以外にシュロスベルクには城壁や砲台、中国パビリオン、トルコ噴水などの跡がある。

歴史地区の中心はシュロスベルクとグラーツ市立公園に挟まれた王宮(グラーツ城)の一帯だ。王宮は15世紀にフリードリヒ3世が大聖堂とともに創設したもので、以降は増改築を繰り返して神聖ローマ皇帝やオーストリア公・大公の居城となっていた。3つの中庭からなる2~4階建てのコートハウス(中庭を持つ建物)群で、15~20世紀の建物が混在している。最古の部分は北東のフリードリヒスバウ宮殿と呼ばれるフリードリヒ3世が築いた部分で、城門や礼拝堂・ホールなどが残されている。その南に隣接するのがマクシミリアンバウ宮殿で、1500年前後にマクシミリアン1世が建設した。特に「和解の階段」と呼ばれるゴシック様式の二重螺旋階段で知られる。さらに南がカールスバウ宮殿で、カール5世が建設した宮殿だ。北の政庁は16世紀、中央の新宮殿(ノイエ宮殿)は20世紀の建物となっている。王宮の東は庭園で、オランジェリー(オレンジなどの果樹を栽培するための温室)などが見られる。

隣接するグラーツ大聖堂は聖エギディウス大聖堂とも呼ばれる司教座聖堂で、フリードリヒ3世が王室の礼拝堂として15世紀半ばに建設した。ゴシック様式のバシリカ式(ローマ時代の集会所に起源を持つ長方形の様式)・三廊式(身廊とふたつの側廊からなる様式)の教会堂で、外観はあまり装飾のないシンプルなゴシック様式ながら、内部は網状ヴォールト(ネット・ヴォールト)天井やステンドグラス、フレスコ画(生乾きの漆喰に顔料で描いた絵や模様)といったゴシック装飾や、17~18世紀に追加されたバロック様式の彫刻やスタッコ(化粧漆喰)細工で飾られている。主祭壇もバロック様式で、ゴシック様式との調和が見事。

大聖堂に隣接するフェルディナント2世霊廟はその名の通り皇帝フェルディナント2世がジョヴァンニ・ピエトロ・デ・ポミスの設計で17世紀はじめに建設した自身と家族の廟で、ラテン十字形の聖カタリナ教会の南に楕円形の埋葬礼拝堂が隣接する形となっている。教会堂の西ファサードに見られるように、オープン・ペディメント(ペディメントは頂部の三角破風部分。三角の上部が開いているものをオープン・ペディメントという)や曲線ペディメント(三角形の辺が曲線で構成されているペディメント)などルネサンス的な均衡を崩したマニエリスム様式で、教会堂や礼拝堂は美しいフレスコ画やスタッコ細工で彩られている。フェルディナント2世と妻の石棺は埋葬礼拝堂に収められており、遺体を収める墓と霊を祀る廟を兼ねた墓廟となっている。

歴史地区のもうひとつの中心がハウプト広場で、広場の象徴的な建物がラートハウスだ。1550年頃に築かれたルネサンス様式のグラーツ市庁舎で、19世紀はじめに新古典主義様式で改装され、19世紀後半に拡張された。上部を飾るドームや尖塔といった装飾は19世紀のもので、内部には市庁舎や議会といった市のさまざまな施設が入っているほか、婚礼の間は人気の結婚式場となっている。ラートハウスの南に位置するラントハウスはグラーツ初のルネサンス建築で、1527~31年頃にシュタイアーマルク州庁舎として建設された。特に美しいのが中庭で、2~3層のロッジアが三方を取り囲んでいる。一部は17世紀にツォイクハウス(兵器庫)として開発されたが、現在は武器博物館として公開されている。

ハウプト広場から伸びるザック通り、シュミード通り、ヘレン通りがメインストリートで、数々の教会堂や宮殿が見られる。一例がシュタットプファー教会(聖血教区教会)で、もともとはフリードリヒ3世が王宮や大聖堂とともに創設した教会堂だ。ゴシック様式でバシリカ式・三廊式の教会堂で、ファサードと鐘楼は18世紀にバロック様式で改修されており、内部は網状ヴォールト天井やステンドグラスといった美しいゴシック装飾で飾られている。ステンドグラスは第2次世界大戦後に再建されたもので、ヒトラーやムッソリーニが描き込まれている。アッテムス宮殿はアッテム家によって18世紀に建設された台形のコートハウスで、グラーツのバロック宮殿の最高峰とされる。イオニア式やコリント式の四角柱ピラスター(付柱。壁と一体化した柱)、曲線ペディメント、貝殻などのスタッコ細工、パステル・カラーといったバロック&ロココ様式の外観を持ち、内部も華麗に装飾されている。これらの通りにはこのように16~18世紀に築かれたルネサンス様式やバロック様式の宮殿が多く、一例としてハーバーシュタイン宮殿やクエンブルク宮殿、ケラースバーグ宮殿などが挙げられる。変わったところではヘルツォークソフ(公爵裁判所)がある。14世紀頃に築かれたタウンハウス(2~4階建ての集合住宅)で、ファサードは18世紀にバロック画家ヨハン・マイヤーが描いたギリシア・ローマ神話のフレスコ画で覆われている。

ムール川右岸の代表的な建物には、マリアヒルファー教会(聖母救済教会)がある。1210年にアッシジの聖フランチェスコが創設したと伝わるフランシスコ会のミノリーテン修道院の修道院教会で、現在の建物は1607~11年に建設され、1742~44年に建築家ヨーゼフ・フーバーが改築したものとされる。バロック様式のバシリカ式・三廊式の教会堂で、東ファサードに双塔を持ち、ペディメントの頂部に大天使ミカエルと地獄に落ちる堕天使ルシファーの彫像が掲げられている。修道院が隣接しており、現在も活動を続けている。聖アンデレ教会は13世紀に築かれたドミニコ会の修道院教会で、イエスの十二使徒のひとりであるアンデレに捧げられている。修道院が去った後の18世紀にバロック様式で改修されたため、ファサードはバロック様式、身廊等はゴシック様式の折衷となっている。アプス(後陣)のような翼廊を持つラテン十字形の教会堂で、身廊より細くて長い内陣はこの地の教会堂に特有のデザインだ。軟体動物のような奇妙な形をしたクンストハウスは現代建築を代表する建物で、「フレンドリー・エイリアン」の異名を持つ。2003年にオープンした美術館で、絵画や写真・彫刻をはじめとする現代アート作品を収めている。

2010年に拡大されたエッゲンベルク城は17世紀に築かれたエッゲンベルク家の居城だ。同家はハプスブルク家に仕えた名家で、クルマウ公ハンス・ウルリッヒ・フォン・エッゲンベルクの時代に全盛期を迎え、イタリアの建築家ジョヴァンニ・ピエトロ・デ・ポミスに城の設計を依頼した。ハンス・ウルリッヒはマドリードのエル・エスコリアル(世界遺産)の壮麗な姿が念頭にあったという。城館はゴシック、ルネサンスの影響を残したマニエリスム様式で、1646年までに完成した。内装は壮大なバロック装飾で彩られていたが、1754~63年に建築家ヨーゼフ・ヒューバーの指揮の下でロココ様式で軽やかに改装された。宇宙的なテーマを持っており、4の塔、12の門、365の窓、リング状に連なる2階の24の広間、その広間の52の窓はそれぞれ四季、1年の月数、1年の日数、1日の時間数、1年の週数を表している。惑星の間はオーストリアのバロック画家ハンス・アダム・ヴァイセンキルヒャーが描いた7惑星に関する油絵とスタッコ細工で埋め尽くされた豪壮な空間となっている。ギャラリーをはじめ、エッゲンベルク城ではこのように絵画が天井や壁面を埋め尽くしている部屋が多い。また、日本の間に収蔵された『豊臣期大坂図屏風』が縁となり、同城と大阪城は友好城郭を提携している。

庭園はもともと泉水を中心としたイタリア式庭園(イタリア・ルネサンス庭園)だったが、18世紀にドラマティックな演出を組み込んだフランス式庭園(フランス・バロック庭園)に改装され、1820年以降は自然を模したイギリス式庭園となっている。

■構成資産

○歴史地区

○エッゲンベルグ城

■顕著な普遍的価値

本遺産は2010年の範囲拡大申請の際に登録基準(vi)「価値ある出来事や伝統関連の遺産」でも推薦されていた。申請国は個人的な世界観の傑出した芸術的・文学的表現と主張したが、ICOMOS(イコモス=国際記念物遺跡会議)は18世紀の改修とその後の庭園の改装は文化的伝統の表れであり、個人的な理想という側面は軽減されており、この基準に該当しないと判断した。

○登録基準(ii)=重要な文化交流の跡

グラーツ市の歴史地区とエッゲンベルグ城はゲルマン地方、バルカン半島、地中海を起源とする芸術と建築の運動を反映しており、何世紀にもわたってこれらの地域と交流を続けてきた。偉大な建築家や芸術家たちがこの地で活発に活動を行い、すばらしい作品群を生み出した。

○登録基準(iv)=人類史的に重要な建造物や景観

グラーツ市の歴史地区とエッゲンベルグ城は歴史上のさまざまな建築様式が融合し、調和した稀有な例である。それぞれの時代の典型的な建物が存在し、その多くはすぐれた傑作である。都市と城の様相は歴史的・文化的発展の物語を如実に物語っている。

■完全性

グラーツ市の歴史的中心部は伝統的な構造と形態を維持しており、戦争の被害もあまり受けていない。エッゲンベルグ城について、城までの通りは500mしか残っていないが、城と庭園は大きな変更が行われておらず、完全性を保っている。歴史地区とエッゲンベルグ城の資産は3kmほど離れているが、地理・歴史・文化・伝統的に不可分で、両遺産を搭載することで完全性が増す。また、両者の周辺と両者を結ぶ通りをバッファー・ゾーンに指定したことも完全性の向上に貢献している。

■真正性

大聖堂やマウソレウムなど歴史地区の建造物群は建築と装飾の両面について真正性が高いレベルで維持されている。エッゲンベルグ城の外観の真正性は良好で、バロック・ロココ様式の内装部分も状態はよい。博物館に改装された1階部分と復元・再設計を含む庭園については信頼度が低いが、許容範囲内である。

■関連サイト

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