ザルツブルク市街の歴史地区

Historic Centre of the City of Salzburg

  • オーストリア
  • 登録年:1996年
  • 登録基準:文化遺産(ii)(iv)(vi)
  • 資産面積:236ha
  • バッファー・ゾーン:467ha
世界遺産「ザルツブルク市街の歴史地区」、ベルヒテスガーデンの山々とフェストゥングスベルクの頂に立つホーエンザルツブルク城、左下はノンベルク修道院
世界遺産「ザルツブルク市街の歴史地区」、ベルヒテスガーデンの山々とフェストゥングスベルクの頂に立つホーエンザルツブルク城、左下はノンベルク修道院
世界遺産「ザルツブルク市街の歴史地区」、右手前の教会が聖マルコ教会、右奥にそびえるのがホーエンザルツブルク城
世界遺産「ザルツブルク市街の歴史地区」、右手前の教会が聖マルコ教会、右奥にそびえるのがホーエンザルツブルク城
世界遺産「ザルツブルク市街の歴史地区」、中央左の明るい双塔とドームがザルツブルク大聖堂、その左の暗い鐘楼がフランシスコ会教会、右手前の明るい鐘楼とドームが聖ペーター修道院教会、右上がホーエンザルツブルク城
世界遺産「ザルツブルク市街の歴史地区」、中央左の明るい双塔とドームがザルツブルク大聖堂、その左の暗い鐘楼がフランシスコ会教会、右手前の明るい鐘楼とドームが聖ペーター修道院教会、右上がホーエンザルツブルク城
世界遺産「ザルツブルク市街の歴史地区」、中央がザルツブルク大聖堂、その手前はカピテル広場、左端がフランシスコ会教会
世界遺産「ザルツブルク市街の歴史地区」、中央がザルツブルク大聖堂、その手前はカピテル広場、左端がフランシスコ会教会
世界遺産「ザルツブルク市街の歴史地区」、聖ペーター修道院教会の華麗なロココ装飾
世界遺産「ザルツブルク市街の歴史地区」、聖ペーター修道院教会の華麗なロココ装飾 (C) Steve Collis
世界遺産「ザルツブルク市街の歴史地区」、ミラベル宮殿と庭園、中央奥はホーエンザルツブルク城
世界遺産「ザルツブルク市街の歴史地区」、ミラベル宮殿と庭園、中央奥はホーエンザルツブルク城。『サウンド・オブ・ミュージック』のドレミの歌のシーンでよく知られている

■世界遺産概要

ローマ(イタリア)とドイツ(神聖ローマ帝国)、教皇と皇帝の文化が出会う場所に生まれた「北のローマ」ザルツブルク。地理学者であり探検家でもあるアレクサンダー・フォン・フンボルトをして「ザルツブルク、ナポリ、コンスタンティノープルの3都市が世界でもっとも美しい」といわしめた。ザルツブルクは塩(ザルツ)の城(ブルク)の意味で、塩の交易拠点だったことに由来する。

○資産の歴史

ザルツァッハ渓谷に位置するザルツブルクには紀元前にケルト人の集落があり、ローマ時代は「ユヴァウム」と呼ばれ、イタリアとドイツ、中央ヨーロッパを結ぶ要衝にあった。696年頃、バイエルン公セオドは司教・聖ルペルトゥスを派遣し、ローマ・カトリック宣教の拠点として整備し、男子修道院・聖ペーター修道院を寄進した。714年頃に女子修道院・ノンベルク修道院、774年に司教区聖堂であるザルツブルク大聖堂が建設され、798年には大司教区に昇格している。

11~12世紀、司教や司祭といった聖職の任命権を巡ってローマの教皇とドイツの神聖ローマ皇帝の間で争いが起こる(聖職叙任権闘争)。1077年、ザルツブルク大司教ゲプハルトは皇帝派(ギベリン)に対する教皇派(ゲルフ)の防衛拠点としてホーエンザルツブルク城を建設した。1200年に大司教となったエバーハルト2世は皇帝派で、神聖ローマ皇帝から広大な領地を獲得。ザルツブルクはこの時代、ローマ・カトリックの大司教区であると同時に、神聖ローマ帝国の諸侯(聖界諸侯)として領邦国家(諸侯や都市による国家)となり、教皇に次ぐ「半教皇」と呼ばれるほどの権勢を誇った。

12世紀に市壁が建設され、大きな火災が起こると木造の住宅や教会堂が石造に建て替えられた。ゴシック建築のブームが起こり、町の多くの建物がゴシック様式で改修された。聖ペーター修道院教会の聖母マリア礼拝堂は町でもっとも古いゴシック様式だ。14世紀にはバイエルンから帝国都市(諸侯の支配を受けず神聖ローマ帝国の下で一定の自治を認められた都市)として独立した。

1587年に大司教に任命されたヴォルフ・ディートリヒ・フォン・ライテナウは「小ローマ」を目指して都市改造を行い、17世紀にはマルクス・シティクス・フォン・ホーエネムスなどの大司教が続いて町のバロック化が進められた。この時代に数多くの名建築家が招聘され、活躍している。一例がイタリア・バロックの建築家サンティーノ・ソラーリで、ザルツブルク大聖堂やカプツィーナ修道院教会、ヘルブルン宮殿等を担当してザルツブルクの街並みの構築に大きく貢献した。17世紀後半にはオーストリア第一のバロック建築家ヨハン・ベルンハルト・フィッシャー・フォン・エルラッハが三位一体教会やコレーギエン教会(大学附属協会)、聖マルコ教会、クレスハイム宮殿などを設計し、街並みにオーストリアらしさをもたらした(オーストリア・バロック)。他にも後期ルネサンス様式の建築家ヴィンチェンツォ・スカモッツィやオーストリア・バロックの建築家ヨハン・ルーカス・フォン・ヒルデブラントらがよく知られている。

1618~48年に三十年戦争が勃発してドイツの多くが荒廃するが、ザルツブルクは難を逃れて多くの移住民や避難民を受け入れ、人口は増大した。これまで町の中心はザルツァッハ川左岸(西岸)だったが、右岸(東岸)が急速に開発された。18世紀にはプロテスタントの弾圧が行われ、人口の1/5ほどが失われた。

1756年には音楽家ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトがザルツブルクで誕生している。モーツァルトの生家や住居、洗礼を行った大聖堂や演奏を行ったレジデンツ等、ゆかりの建物が数多く残されている。もともとザルツブルクの大司教や貴族は芸術を庇護していたが、モーツァルトの登場で音楽の都として開花した。19世紀にモーツァルト音楽祭やザルブルク音楽祭といった世界的な音楽祭が開催され、ミュージカル『サウンド・オブ・ミュージック』の舞台として名を馳せた。

1803年にはじまるナポレオン戦争でザルツブルクはオーストリア帝国の支配下に入り、大司教による支配と繁栄は終了する。

○資産の内容

世界遺産の資産は左岸のフェストゥングスベルク、メンヒスベルク、右岸のカプツィナーベルクという3つの丘と川の沿岸部となっている。

歴史地区を取り囲むこれら3つの丘には古くから要塞や城塞・塔が建設され、城壁が張り巡らされていた。ザルツブルクの主な軍事建築には、フェストゥングスベルクのホーエンザルツブルク城がある。大司教ゲプハルトが1077年にロマネスク様式の重厚な城塞を建設して城壁で取り囲んだ。時代時代に増改築が進められ、15~16世紀には4基の塔や砲塔が設置され、ゴシック様式の宮殿や政庁が築かれた。17世紀には近代的な大砲に備えてルネサンス様式の稜堡(城壁や要塞から突き出した堡塁)が設置され、城壁も拡張・強化された。現在は博物館として公開されており、豪華な内装で知られる黄金の広間や大司教礼拝堂、ザルツブルクの牡牛と呼ばれる大オルガンなどが見学できる。これ以外の主要軍事建築には、17世紀に築かれたカプツィナーベルクのフランツィスキ城や、14世紀頃の創建で後にルネサンス様式やネオ・ルネサンス様式の宮殿が築かれたメンヒスベルクのヨハネス城といった城塞がある。

ザルツブルクの主な修道院として、ドイツ語圏最古の修道院ともいわれる聖ペーター修道院が挙げられる。696年頃に創設されたベネディクト会の男子修道院で、ローマ・カトリックの宣教の最前線で活躍する修道士の育成に貢献した。聖ペーター修道院教会はその付属教会で、12世紀に築かれたロマネスク様式・ゴシック様式の教会堂をベースに、17世紀にバロック様式で改装された。ラテン十字形の三廊式(身廊とふたつの側廊からなる様式)の教会堂で、西ファサードは修道院と一体化していて鐘楼が掲げられている。西ファサード、鐘楼、クロッシング塔(十字形の交差部に立つ塔)をはじめ、外観はほぼバロック様式となっている。内装は18世紀に改装された白と金を基調とするロココ様式の華麗な空間で、画家マルティン・ヨハン・シュミットの祭壇画をはじめ、バロックあるいはロココ様式の豪奢な彫刻や絵画・フレスコ画(生乾きの漆喰に顔料で描いた絵や模様)・スタッコ(化粧漆喰)細工で彩られている。礼拝堂も多彩で、12~13世紀に制作されたロマネスク様式の聖カタリナ礼拝堂や、ザルツブルク最古のゴシック様式といわれる聖マリア礼拝堂など、歴史ある礼拝堂や祭壇が少なくない。隣接のペータースフリートホフは12世紀以来の歴史を持つ教会墓地でカタコンベ(地下墓地)が見られるほか、建築家サンティーノ・ソラーリや作曲家ミヒャエル・ハイドンをはじめ数多くの有名人の墓が収められている。

フェストゥングスベルクのノンベルク修道院は714年頃に創設されたベネディクト会の女子修道院で、現役では世界最古の女子修道院といわれる。当初は貴族の子女に限られていたが、15世紀に開放され、多くの修道女を育成した。『サウンド・オブ・ミュージック』の主人公マリアが生活していた場所としても知られる。ノンベルク修道院教会は11世紀はじめに全焼し、神聖ローマ皇帝ハインリヒ2世の支援を得て1009年頃にロマネスク様式で再建された。15世紀にふたたび火災の被害にあってゴシック様式で改修され、18世紀にバロック様式のドームを持つ新古典主義様式の鐘楼が設置された。ラテン十字形・三廊式の教会堂で、12世紀に描かれた楽園のフレスコ画はオーストリアのロマネスク美術で最重要の作品とされる。

カプツィナーベルクのカプツィナー修道院は1596年に創設されたカプチン・フランシスコ修道会の修道院だ。修道院教会はバシリカ式(ローマ時代の集会所に起源を持つ長方形の様式)・単廊式のシンプルな教会堂で、聖フランチェスコと聖ボナヴェントゥラに捧げられている。

ザルツブルクの主な教会堂としてザルツブルク大聖堂、正式名称・聖ルパート=ヴィルギル大聖堂が挙げられる。774年にロマネスク様式で創建された大聖堂で、1181年に再建・拡張され、1613~19年にはヴィンチェンツォ・スカモッツィが設計したプランをサンティーノ・ソラーリが引き継いで建て直した。バロック様式のラテン十字形・三廊式の教会堂で、全長101m・幅68m、高さはドームが79m、塔が81mという巨大な教会堂となっている。半円に張り出したアプス(後陣)を東・北・南の3箇所に持ち、十字形の交差部分にはバロックらしい巨大な長球(楕円を回転させた形)のドームを冠している。西ファサードのウェストワークには2基の鐘楼を掲げ、信仰・愛・希望という3基のポータル(玄関)を有する。内部は白と金を基調とした華麗な空間で、ドナート・マスカーニとサンティーノの息子イグナツィオの天井フレスコ画やレリーフ・彫刻・スタッコなどで飾られている。圧巻はドームからアプスにかけての空間で、1つのドームと3つの半ドーム、3つの祭壇、4つのパイプオルガンが荘厳な空気を演出している。モーツァルトがウィーンに出る前に大聖堂のオルガン奏者を務めていたことはよく知られている。

フランシスコ会教会はザルツブルク最古級の教会堂のひとつで、初期キリスト教時代に礼拝堂があったと見られ、8世紀に聖母マリアに捧げられた教会堂が建設された。13世紀にロマネスク様式で再建され、15世紀にドイツの建築家ハンス・フォン・ブルクハウゼンによってゴシック様式のクワイヤ(内陣の一部で聖職者や聖歌隊のためのスペース)や鐘楼が築かれた。特に深い森を彷彿させる網状ヴォールト(ネット・ヴォールト)天井は独特だ。18世紀にはフィッシャー・フォン・エルラッハによってクワイヤを取り囲む9堂のバロック様式の礼拝堂が築かれ、鐘楼がバロック様式で建て直された。近世以降、ザルツブルクではゴシック様式は見下されて多くは改修されたが、この教会堂については残され、おかげで一帯でもひときわユニークな教会堂となっている。

コレーギエン教会はザルツブルク大学の大学教会で、フィッシャー・フォン・エルラッハの設計で1694~1707年に建設された。ギリシア十字形に近い形で中央に長球ドームを頂いており、西ファサードは半円が張り出した円柱形でイオニア式の四角柱ピラスター(付柱。壁と一体化した柱)が見られ、両脇には2基の鐘楼が設けられている。曲面を駆使したオーストリア・バロックを代表する作品とされる。三位一体教会もフィッシャー・フォン・エルラッハの作品で、長方形のコートハウス(中庭を持つ建物)の中央を飾る教会堂として建設された。楕円形の天井を持つ単廊式の建物で、ファサードはコレーギエン教会とは逆に半円状にえぐれた曲面で構成され、柱はコリント式で両脇に鐘楼が立っている。聖マルコ教会も同氏の設計で、ファサードに曲面は見られないが、イオニア式のピラスターが並んでいる。いずれの教会堂も天井のフレスコ画や彫刻・スタッコ細工など、バロックらしい空間となっている。

ザルツブルクの主な宮殿建築として、まずミラベル宮殿が挙げられる。1606年頃に大司教ヴォルフ・ディートリッヒが愛人サロメ・アルトのために建設したと伝わる宮殿で、当初はアルトの名を取って「アルトナウ宮殿」と呼ばれていた。1721~27年にはヨハン・ルーカス・フォン・ヒルデブラントがバロック様式の宮殿コンプレックスに改築し、19世紀にはさらに新古典主義様式で改装された。「□」形のコートハウスで、結婚式場として人気の大理石の間や宮殿礼拝堂など芸術作品であふれた豪奢な施設を数多く備えている。庭園は17世紀後半からフィッシャー・フォン・エルラッハがバロック庭園として整備し、幾何学的に区画した各所にテーマを設けて神々の彫像やドワーフ像などを設置し、噴水や花壇、劇場やオランジェリー(オレンジなどの果樹を栽培するための温室)、バラ園などが配された。

ふたつのレジデンツ、ザルツブルク・レジデンツ(旧レジデンツ)とノイエ ・レジデンツ(新レジデンツ)はかつての大司教宮殿で、レジデンツ広場を挟んで向かい合って立っている。ザルツブルク・レジデンツは12世紀以前に創設され、1600年前後にヴィンチェンツォ・スカモッツィをはじめとする建築家によってルネサンス様式で改築が進められ、18世紀にはヨハン・ルーカス・フォン・ヒルデブラントによってファサードなどにバロック様式の要素が加えられた。四角形のコートハウスで180以上の部屋とホールからなり、アルベルト・カメジーナのスタッコ細工やローマ神話の神々を描いたヨハン・ミヒャエル・ロットマイヤーの天井画で装飾された最大のホール・カラビニエリサールや、ロットマイヤーのアレクサンダー大王のシリーズ絵で知られる騎士のホールなど数多くの見所がある。一方、ノイエ ・レジデンツは大司教ヴォルフ・ディートリッヒが1588年頃から建設をはじめて17世紀はじめに完成させた新しい大司教宮殿だ。ヴォルフ・ディートリッヒは美術品コレクターとしても名を馳せており、漆喰で仕上げられた木造格天井など質の高い内装が施されている。バロック様式のグロッケンシュピール(鐘楼)は1702年に設置されたもので、カリヨン(鐘を組み合わせた楽器)の美しい音で知られる。現在は両レジデンツとも博物館として公開されている。

ザルツブルクにはこれら以外に、1693年に採石場跡に築かれた馬術学校を舞台に仕上げた祝祭劇場のフェルゼンライトシューレや、バロック噴水の傑作として知られるレジデンツ広場のアトラス噴水、モーツァルトの生家をはじめ歴史あるタウンハウス(2~4階建ての集合住宅)が立ち並ぶゲトライデ通りなど、多くの歴史的建造物がある。

■構成資産

○ザルツブルク市街の歴史地区

■顕著な普遍的価値

○登録基準(ii)=重要な文化交流の跡

ザルツブルクはイタリアとドイツの文化の交流について長期にわたって重要な役割を果たし、ふたつの文化を見事に開花させた。

○登録基準(iv)=人類史的に重要な建造物や景観

ザルツブルクは中世後期から20世紀に至るまで際立って重要なヨーロッパの宗教都市であり、非常に質の高い数多くの世俗・宗教両面の建造物を有している。

○登録基準(vi)=価値ある出来事や伝統関連の遺産

ザルツブルクはモーツァルトが生まれ活動を行った町であり、大司教たちが庇護した芸術や建築、特に音楽との関係で特筆に値する。

■完全性

資産であるザルツブルク旧市街中心部には司教都市と領邦国家として顕著な普遍的価値を構成するすべての要素が含まれており、法的に保護されている。周囲にはバッファー・ゾーンも設定されているが、その景観について都市開発に対して脆弱である。

■真正性

ザルツブルク旧市街中心部には歴史的な都市レイアウトと建築の両面が高いレベルで維持されている。メンヒスベルクの丘やカプツィナーベルクの丘といった丘を背景にホーエンザルツブルク城やノンベルク修道院が並び立ち、教会の塔やドームの数々が美しいスカイライン(山々や木々などの自然や建造物が空に描く輪郭線)を描いている。町にはバロック様式の景観が展開しており、ゴシック様式の建物も少なくない。こうした歴史的建造物の構造と外観は適切に保全されている。

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