タッラコの考古遺跡群

Archaeological Ensemble of Tarraco

  • スペイン
  • 登録年:2000年、2021年名称変更
  • 登録基準:文化遺産(ii)(iii)
  • 資産面積:32.65ha
  • バッファー・ゾーン:110.4ha
世界遺産「タッラコの考古遺跡群」、ラス・ファレラス水道橋
世界遺産「タッラコの考古遺跡群」、ラス・ファレラス水道橋
世界遺産「タッラコの考古遺跡群」、アンフィテアトルム
世界遺産「タッラコの考古遺跡群」、アンフィテアトルム
世界遺産「タッラコの考古遺跡群」、植民地フォルム
世界遺産「タッラコの考古遺跡群」、植民地フォルム
世界遺産「タッラコの考古遺跡群」、ローマ時代の城壁
世界遺産「タッラコの考古遺跡群」、ローマ時代の城壁
世界遺産「タッラコの考古遺跡群」、タラゴナ大聖堂
世界遺産「タッラコの考古遺跡群」、タラゴナ大聖堂 (C) Jordiferrer
世界遺産「タッラコの考古遺跡群」、スキピオの塔
世界遺産「タッラコの考古遺跡群」、スキピオの塔
世界遺産「タッラコの考古遺跡群」、ベラ凱旋門
世界遺産「タッラコの考古遺跡群」、ベラ凱旋門 (C) Mcthelp

■世界遺産概要

タラゴナはスペイン東部カタルーニャ州の都市で、市内に点在する古代遺跡の多くはローマ(世界遺産)がはじめてイベリア半島に建設した植民都市タッラコの遺跡群だ。タッラコは共和政ローマのローマ属州ヒスパニア・キテリオルや帝政ローマのヒスパニア・タラコネンシスの州都としてローマの拠点としてありつづけ、半島の地中海沿岸部でもっとも壮大で華やかな都市に発展した。本遺産の構成資産は14件で、タラゴナ大聖堂(優者聖テクラのバシリカ・メトロポリターナ大聖堂)のような中世以降の建造物の下に残る遺構も含まれている。なお、2021年に世界遺産名のスペルが変わり、"Tárraco" から "Tarraco" に変更されている。

○資産の歴史

ローマ時代以前、タラゴナの地にはイベリア半島の先住民であるイベリア人やギリシア人が居住しており、沿岸部にはフェニキア人が入植していた。紀元前3~前2世紀に共和政ローマと北アフリカのカルタゴ(世界遺産)の対立が激化してポエニ戦争が起こると、紀元前218年頃にローマの英雄・大スキピオがこの地を占領して城壁を建設し、要塞都市として整備した。イベリア半島地中海沿岸部の支配を固めたローマはふたつの属州、東のヒスパニア・キテリオルと南のヒスパニア・ウルテリオルを設置。当初、前者の州都はカルタゴ・ノヴァ(現・カルタヘナ)に置かれたが、後にタッラコに遷された(異説あり)。

アウグストゥスが初代皇帝となり、ローマ帝国が成立した紀元前27年、アウグストゥスはタッラコを訪問して町の整備を命じ、イベリア半島南西部で進められていたカンタブリア戦争(紀元前29~前19年)に参戦して戦功を上げた。やがてイベリア半島を統一すると属州の再編を行い、半島北東部のヒスパニア・タラコネンシス、西部のヒスパニア・ルシタニア、南部のヒスパニア・バエティカの3つに分割した。首都はそれぞれタッラコ、メリダ、コルドバで、すべて世界遺産となっている。

タッラコの正式名称はコロニア・ユリア・ウルブス・トライアンファリス・タッラコという。ローマ帝国時代にタッラコはイベリア半島の地中海沿岸でもっとも裕福な港湾都市に発展し、数多くの建造物が築かれた。しかし、2世紀後半から衰退がはじまり、3世紀末に半島は6分割されて州都としての機能も縮小された。476年に西ローマ帝国が滅亡すると西ゴート王国の支配下に入り、714年にはイスラム王朝であるウマイヤ朝の版図に入った。キリスト教勢力とイスラム教勢力の国境に位置するタッラコは度重なる戦争の果てに多くが破壊された。新しい都市が建設されるのはキリスト教徒によるレコンキスタ(国土回復運動)によって1148年に奪還されて以降のことだ。

○資産の内容

世界遺産の14件の構成資産のうち、「ローマ時代の城壁」はタッラコに残るローマ時代最古の建造物で、紀元前3世紀後半、大スキピオによる建設と伝わっている。全長1.7kmのうち現存しているのは1.3kmほどで、ラルケビスベ塔、カビスコル塔、ミネルヴァ塔は同時代のものだ。城壁はもともと高さ6m・厚さ4.5mだったが、紀元前2世紀半ばに高さ12m・厚さ6mに拡張された。時代時代の修復を受けているが、保存状態はきわめてよい。

「皇帝の宗教地区」は73年頃、皇帝ウェスパシアヌスが建設した神殿や礼拝所があった場所で、153×136mの列柱廊が取り囲んでいたという。ローマ帝国滅亡後、西ゴート王国によって神殿は教会に改修された。1171年からタラゴナ大聖堂と司教宮殿(現・司教区博物館)の建設がはじまり、14世紀前半にロマネスク様式とゴシック様式の折衷で完成した。大聖堂や司教区博物館の地下あるいは地表でローマ時代の遺構が発見されており、保存されている。

「地域フォルム」は320×175mのフォルム(公共広場)跡で、周囲を取り囲む神殿の柱廊跡や地方議会の建物の遺構などが発見されている。

「キルクス(多目的競技場)」はローマ都市では珍しく城郭都市の中心付近に建設されている。全長325×100~115mで、南東の一部が残されている。現在キルクスの中心はフォント広場になっている。

「植民地フォルム」は下部フォルムとも呼ばれる58×12.5mほどのフォルム跡で、共和政ローマ時代の紀元前1世紀の遺跡だ。裁判所として使用されていたバシリカ(集会所)や神殿・邸宅などの遺構が残っており、それらを構成していたコリント式の柱やアーチが保存されている。

「テアトルム(ローマ劇場)」はローマ帝国初期、1世紀のアウグストゥスの治世に建設された。観客席やアリーナの一部が残されているほか、周辺には貯水池跡や港湾市場跡が見られる。

「アンフィテアトルム(円形闘技場)、バシリカ、ロマネスク様式の教会」は丘を下った海岸沿いに位置する遺跡群。アンフィテアトルムは2世紀後半に建設されたもので、130×102mの楕円形で約14,000人を収容し、剣闘士や猛獣の戦いが行われた。5世紀頃に放棄され、6世紀の西ゴート王国の時代にバシリカ式の廟が建設された。12世紀にラテン十字式・ロマネスク様式のサンタ・マリア・デル・ミラクル教会に建て替えられ、その遺構が残されている。

「初期キリスト教墓地」は3世紀までさかのぼる初期キリスト教の墓地遺跡で、この年代のものは地中海西部では非常に珍しい。後にこの場所に教会堂が建てられたが、イスラム王朝の時代、8世紀に解体された。これまでに2,000を超える墓が発掘されており、遺体とともにアンフォラ(ふたつの持ち手を持つ細長い陶器)や装飾品をはじめ数々の副葬品が発見されている。

「ラス・ファレラス水道橋」はタッラコの象徴的な建造物で、アウグストゥスの命で建設された全長217m・高さ最大27mの2層アーチの水道橋だ。フランコリ川の水源から25kmにわたって水を引くフランコリ水道の一部で、その壮大な規模から悪魔が造ったという伝説が伝えられており、「悪魔の水道橋」の異名を持つ。

「スキピオ(エスシピオンス)の塔」は紀元前1世紀に築かれた葬祭塔あるいは廟・神殿で、第2次ポエニ戦争(紀元前219~前201年)でカルタゴの名将ハンニバルを破った大スキピオと、第3次ポエニ戦争(紀元前149~前146年)でカルタゴを滅ぼした小スキピオにちなんで命名された。小アジアの死と再生の神アティスのレリーフが見られるほか、ふたりの男のレリーフが両スキピオのものとされていたが、信憑性は低いと考えられている。

「メドル採石場」はローマ時代を通じて使用された石灰岩の採石場で、タッラコ周辺にいくつかあった採石場でも最大を誇る。

「センセーリェスのヴィッラ(別荘)とマウソレウム(廟)」はローマ時代の別荘跡で、もともと2世紀に築かれた素朴な別荘が4世紀に大幅に拡張された。主な建物は四葉形と円形の2部屋からなり、いずれもドームを冠しており、円形の建物は後に廟に改修された。廟のドームには狩猟や聖書のシーンなどを描いたモザイク画(石やガラス・貝殻・磁器・陶器などの小片を貼り合わせて描いた絵や模様)が残されている。

「ヴィッラ・デルス・ムンツ」は1世紀初頭に建てられた別荘跡で、3世紀にローマの高官の別荘として建て替えられた。浴場やサウナ・庭園には彫刻やモザイク画・大理石柱といった豪華で多彩な装飾が見られ、周囲には貯水槽やセラー・倉庫・厩舎・畑・納屋・使用人のための家々・畑など数多くの付属施設・設備が配されている。

「ベラ凱旋門」はタッラコの市境に築かれたモニュメントで、アウグストゥスが周辺民族を平定した功績を讃えて13年頃に建設された。かつては市への出入口でもあった。

■構成資産

○ローマ時代の城壁

○皇帝の宗教地区

○地域フォルム

○キルクス(多目的競技場)

○植民地フォルム

○テアトルム(ローマ劇場)

○アンフィテアトルム(円形闘技場)、バシリカ、ロマネスク様式の教会

○初期キリスト教墓地

○ラス・ファレラス水道橋

○スキピオ(エスシピオンス)の塔

○メドル採石場

○センセーリェスのヴィッラ(別荘)とマウソレウム(廟)

○ヴィッラ・デルス・ムンツ

○ベラ凱旋門

■顕著な普遍的価値

○登録基準(ii)=重要な文化交流の跡

ローマ世界のさまざまな都市のモデルとされたタッラコのローマ遺跡群はローマの都市計画とデザインの発展においてきわめて重要である。

○登録基準(iii)=文化・文明の稀有な証拠

タッラコは古代の地中海世界の歴史における重要な段階に関して雄弁で比類ない証拠を提示している。

■完全性

ローマ時代の遺跡群の重要性と中世の技術的限界、そして地形的制約からローマの都市プランと建築はきわめて印象的な形で引き継がれている。都市構造はおおむね保存されており、ローマ属州ヒスパニアの州都としての公共施設や軍事建築の跡が伝えられている。遺跡の多くは断片的だが、中世以降の建物の下に多くの遺構が保存されており、ローマ都市の壮大さを物語っている。考古学的調査によって発掘された港湾地区、植民地フォルム、浴場、テアトルム、アンフィテアトルム、キルクス、地域フォルム、宗教地区などの遺構は都市構造・建設段階・規模・衰退時期等を表しており、全体として都市遺跡の重要性を証明している。また、ラス・ファレラス水道橋、センセーリェスのヴィッラとマウソレウム、ヴィッラ・デルス・ムンツ、ベラ凱旋門、スキピオの塔、メドル採石場といった建造物もこの土地の理解に貢献している。

考古遺跡群の保存状態は全体的に良好で、建物やモニュメントはその重要性と、ローマ都市での役割や機能をいまなお雄弁に伝えている。

■真正性

発掘された遺跡群の真正性は完全である。アンフィテアトルム、ベラ凱旋門、スキピオの塔といった有力モニュメントの真正性も非常に高い。後世の建造物に組み込まれた古代遺跡の構造部は断片的ではあるが、現在の建物の用途や形状が本来のものと異なっているにもかかわらず、本物であるといえる。考古学的成果や古代の書物・文書・碑文・貨幣は構成資産の真正性と際立った重要性を裏付けている。

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