ハンザ同盟都市リューベック

Hanseatic City of Lübeck

  • ドイツ
  • 登録年:1987年、2009年軽微な変更
  • 登録基準:文化遺産(iv)
  • 資産面積:81.1ha
  • バッファー・ゾーン:693.8ha
世界遺産「ハンザ同盟都市リューベック」、上空から見たリューベック旧市街。中央右下の尖塔が聖ヤコビ教会、中央上のもっとも大きな教会堂が聖マリア教会、その上が聖ペトリ教会、左上の双塔がリューベック大聖堂
世界遺産「ハンザ同盟都市リューベック」、上空から見たリューベック旧市街。中央右下の尖塔が聖ヤコビ教会、中央上のもっとも大きな教会堂が聖マリア教会、その上が聖ペトリ教会、左上の双塔がリューベック大聖堂 (C) Innomann at German Wikipedia
世界遺産「ハンザ同盟都市リューベック」、リューベック大聖堂。左の巨大な双塔がスパイア、右の小さな尖塔はフレッシュ
世界遺産「ハンザ同盟都市リューベック」、リューベック大聖堂。左の巨大な双塔がスパイア、右の小さな尖塔はフレッシュ
世界遺産「ハンザ同盟都市リューベック」、聖マリア教会(手前)と聖ペトリ教会(奥)
世界遺産「ハンザ同盟都市リューベック」、聖マリア教会(手前)と聖ペトリ教会(奥)。聖マリア教会は北ヨーロッパに普及したレンガ・ゴシックのモデルとされた
世界遺産「ハンザ同盟都市リューベック」、城郭都市リューベックの西門にあたるホルステン門。背後の尖塔は右が聖ペトリ教会、左が聖マリア教会
世界遺産「ハンザ同盟都市リューベック」、城郭都市リューベックの西門にあたるホルステン門。背後の尖塔は右が聖ペトリ教会、左が聖マリア教会
世界遺産「ハンザ同盟都市リューベック」、ザルツシュパイヒャー
世界遺産「ハンザ同盟都市リューベック」、ザルツシュパイヒャー。屋根は切妻造で奥が階段破風、手前は三角破風で頂部にギリシア・ローマ建築あるいはルネサンス建築のようなペディメントの装飾を付けている
世界遺産「ハンザ同盟都市リューベック」、城郭都市リューベックの北門に当たるブルク門
世界遺産「ハンザ同盟都市リューベック」、城郭都市リューベックの北門に当たるブルク門
世界遺産「ハンザ同盟都市リューベック」、マルクト広場のラートハウス。左の大きな尖塔を持つ建物が本館、その右がランゲス・ハウス、さらに右がノイエス・ゲマッハ
世界遺産「ハンザ同盟都市リューベック」、マルクト広場のラートハウス。左の大きな尖塔を持つ建物が本館、その右がランゲス・ハウス、さらに右がノイエス・ゲマッハ (C) Mylius

■世界遺産概要

港湾都市リューベックは12世紀にバルト海南西のリューベック湾沿岸部、トラヴェ川とヴァーケニッツ川が合流する半島状の土地に築かれた。リューベックが盟主を務めるハンザ同盟は一時北海・バルト海貿易を独占し、リューベックは「ハンザの女王」と讃えられた。現在も旧市街には12~16世紀の繁栄を伝える街並みが広がっており、レンガ造の教会堂や庁舎、ギルドハウスや倉庫群、城門や城壁・運河が連なっている。なお、世界遺産登録時にはバッファー・ゾーンが設けられていなかったが、2009年の軽微な変更で設定された。

○資産の歴史

リューベックには新石器時代から人類の居住の跡があり、ドルメン(支石墓)などが発見されている。3~4世紀のゲルマン民族の大移動の時代にゲルマン系のサクソン人が入植したが、フランク王でローマ皇帝でもあるカール大帝がキリスト教化に反対したサクソン人を追放し、9世紀はじめにスラヴ系のポラーブ人などが進出した。スラヴ語で「すてきな」を意味する "Liubice" と呼ばれる集落が築かれ、やがて「リューベック」に転じたという。しかし、この町は12世紀はじめにスラヴ系のラーン人によって破壊された。

1143年にドイツの名門諸侯ウェルフェン家のシャウエンブルク伯・ホルシュタイン伯アドルフ2世はドイツ初の港湾都市として現在の場所に新たにリューベックを建設した。一帯を治めるザクセン公・バイエルン公のハインリヒ3世は都市開発を積極的に進め、バルト海貿易の特権を与えた。リューベックはこのバルト海貿易と、エルベ川河口に位置し、北海からボヘミア(チェコ西部)まで広い商業圏を持つ近郊のハンブルクとの貿易によってすぐに繁栄した。12世紀後半には司教座が置かれてリューベック大聖堂が奉献され、ドイツ北部でも最重要の都市のひとつとなった。

この時代、バルト海貿易の主役はスカンジナビア半島のゲルマン系ノルマン人やユトランド半島のデンマークで、その中心はゴットランド島のヴィスビュー(世界遺産)やデンマークのシュレスヴィヒだった。1160年にリューベックは交易権やギルド結成権などを認めるゾースト都市法の認定を受け、翌年にはバルト海貿易についてゴットランド商人と法的に同等の権利を認めるアルトレンブルクの特権を手に入れた。1226年には神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世から一定の自治を認め、帝国自由都市(諸侯や大司教・司教の支配を受けず神聖ローマ帝国の下で一定の自治を認められた都市)の指定を受けた。そして1227年のボルンヘーフェトの戦いでデンマークがドイツ連合軍に敗れるとデンマークが衰退し、リューベックやケルンを中心とするドイツの諸侯や都市による東方植民が進められた。リューベックはドイツ騎士団の東方伝道にも協力し、キリスト世界の伝道者としての名声も獲得した。

リューベックの商人たちはヴィスビューやタリン(世界遺産)といった主要交易都市に進出し、「ハンザ(商人ハンザ)」と呼ばれるギルド(職業別組合)を形成して組織的に貿易を行った。交易圏は次第に拡大し、イギリスやフランス北部、フランドル、ノルウェーといった北海沿岸からロシアの内陸部にまで進出した。ハンザ商人は地元の塩やニシン、スカンジナビア半島のタラ、バルト地方の小麦、イギリスの羊毛、フランドルの毛織物、フランスのワイン、ロシアの毛皮などを売買し、中継貿易によって大いに繁栄した。リューベックでは年市が開催され、ヴェネツィア(世界遺産)やジェノヴァ(世界遺産)といった地中海からさえ商品が集まった。こうして北海・バルト海のみならず地中海や黒海、さらにはエルベ川やライン川、ヴォルホフ川、ドニプロ川(ドニエプル川)といった大河によって交易網はヨーロッパ内部にまで広がった。

14世紀に入るとハンザはリューベックを盟主に帝国都市を結ぶ都市同盟となり(都市ハンザ/ドイツ・ハンザ)、ヴィスビューやタリン、リガ(すべて世界遺産)などドイツ外も含めて加盟都市は70以上に及んだ。海外拠点としてロンドン、ノヴゴロド、ブルッヘ(ブルージュ)、ベルゲン(すべて世界遺産)に4大外地商館(外地ハンザ)を置き、北海・バルト海貿易を支配した。

もともとハンザ同盟は軍を持たない経済同盟だが、連合艦隊を形成して軍事行動を起こすこともあった。1358年に毛織物の一大産地だったフランドルがハンザに反旗を翻すと、これを封鎖して押さえ込んだ。1361年にデンマーク王ヴァルデマー4世がヴィスビューを併合すると、ハンザ同盟は連合艦隊を編成して攻撃。この戦いには敗れるものの、1367年には内陸部の都市を加えたケルン同盟を組んでデンマークの首都コペンハーゲンを急襲して勝利を収めた(第2次デンマーク=ハンザ同盟戦争)。1370年のシュトラールズントの和議でハンザ同盟はデンマークにバルト海における自由貿易を認めさせた。これによりバルト海における漁業貿易をほぼ独占し、盟主リューベックは「ハンザの女王」と讃えられた。また、神聖ローマ皇帝カール4世は「帝国の5つの栄光」としてヴェネツィア、ローマ、ピサ、フィレンツェ(すべて世界遺産)と並んでリューベックを挙げた。

帝国都市は神聖ローマ帝国が直接統治する都市を意味するが、諸侯が統治する王国や公国・司教領といった国々に比べて中央集権が弱く、諸侯の連合体にすぎなかった。このため15世紀に入るとイングランド王国やブルゴーニュ公国、ポーランド王国といった強力な国家がハンザ同盟の特権を否定し、競合するようになった。北ヨーロッパでも1397年にデンマーク、ノルウェー、スウェーデンがカルマル同盟を結成してハンザ同盟に対抗した。また、ハンザ同盟内部でも商人に対して手工業者らが市政への参加を求めて市民闘争(ツンフト闘争)を起こし、次第に統制力は弱まっていった。

16世紀、大航海時代に入るとヨーロッパの貿易の中心は大西洋に移り、バルト海貿易と地中海貿易は衰退した。また、各国で中央集権が進んで主権国家・絶対王政・重商主義への移行をはじめ、都市同盟では太刀打ちできないものになりつつあった。たとえばノヴゴロドのハンザ商館はモスクワ大公国のイヴァン3世に没収され、ロンドンの商館はイングランドのエリザベス1世によって閉鎖されるなど、16世紀末には多くの都市が同盟を去った。1534~36年の伯爵戦争ではデンマーク王位を巡る争いにリューベックが参戦してオルデンブルク伯クリストファーを支援するが、1523年にカルマル同盟から離脱したスウェーデンの支持を得たクリスチャン3世に打ち破られた。これによりデンマークの中央集権化が進み、バルト海におけるデンマークとスウェーデンの優位が確立された。

宗教改革で旧教=ローマ・カトリックと新教=プロテスタントの対立が進むと都市ごとに対応は分かれ、ハンザ同盟ではルター派やカルヴァン派といったプロテスタントが主流を占めた。リューベックは辛うじて中立を保ったが、同盟の分裂は止まらなかった。1618~48年の三十年戦争でドイツは荒廃し、軍を持たないハンザ都市の多くが国家に吸収された。リューベック、ハンブルク、ブレーメンは3市同盟を結成して存続したが、1669年を最後に総会は中止され、ハンザ同盟は事実上解体した。

バルト海貿易の中心がデンマークやスウェーデン、オランダに移ってもリューベックは帝国都市・ハンザ自由都市としてありつづけ、1806年に神聖ローマ帝国が消滅すると都市国家として独立した。しかし、その後はフランス帝国、ドイツ連邦などの支配下に入り、1871年にドイツ帝国の版図に入った。

○資産の内容

世界遺産の資産は城郭都市のあった旧市街で、町の東半分は運河とヴァーケニッツ川、西半分はトラヴェ川とシュタッドグラーベン(堀)によって囲まれており、中州あるいは島状の土地となっている。かつては城壁に囲まれており、17世紀には北~西~南にかけて強力な星形要塞が築かれていたが、19世紀に撤去された。シュタッドグラーベンのジグザグ状の堀がその名残だ。構成資産は中州内の3件で、ゾーン1~3が指定されている。

ゾーン1は中州の北東~東~南までで、中州の半分以上をカバーしている。北端は城郭都市の北門に当たるブルク門で、1444年に建設された。すぐ西には13世紀はじめに創建されたドミニコ会修道院のリューベック城修道院(ブルククロスター)がたたずんでいる。北の中心はコーベルク広場で、南には船員に支持されていた聖ヤコビ教会が立っている。1334年に奉献されたプロテスタント・福音ルーテル教会の教会堂で、この地域特有のレンガ造のゴシック様式(レンガ・ゴシック/ブリック・ゴシック)となっている。平面プランはバシリカ式(ローマ時代の集会所に起源を持つ長方形の様式)の三廊式(身廊とふたつの側廊を持つ様式)で、ウェストワーク(ドイツ語でヴェストヴェルク。教会堂の顔となる西側の特別な構造物。西構え)に巨大なスパイア(ゴシック様式の尖塔)を掲げる鐘楼を持ち、東にはフレッシュ(屋根に設置されたゴシック様式の尖塔。スパイアの一種)がそびえている。その東の聖霊病院は1227年創設の救貧院を兼ねた病院で、ヨーロッパ最古の福祉施設とされる。ハンザ商人はドイツ騎士団とともにキリスト教の宣教に貢献するだけでなく、こうした福祉活動の普及にも携わっていた。聖ヤコビ教会の西に立つ船員ギルドハウスは1401年に創立した船員のギルドのための施設で、現在の建物は16世紀に建て替えられたものだ。全体はルネサンス様式で、切妻屋根にリューベック特有の階段破風を冠している。旧市街南東部にそびえる巨大なスパイアはエギディエン教会のもので、13世紀前半にゴシック様式で建設された。聖ヤコビ教会とよく似た平面プランで、鐘楼・三廊式バシリカ・フレッシュを持ち、巨大なスパイアを頂いている。南の聖アン修道院はもともと聖アウグスチノ修道会の施設で、16世紀はじめにゴシック様式で建設された。

ゾーン2は中州の南~西の一帯だ。南端のリューベック大聖堂は12世紀後半の創建で、1230年頃にロマネスク様式で再建され、1266~1335年にゴシック様式で改築された。「†」形のラテン十字形・三廊式の教会堂で、ウェストワークの双塔にはスパイア、十字の交差部分にはクロッシング塔(十字形の交差部に立つ塔)としてフレッシュがそびえている。中央西には聖ヤコビ教会やエギディエン教会とよく似た聖ペトリ教会がある。13世紀はじめにロマネスク様式で建設され、13世紀後半にゴシック様式で改築されており、やはりウェストワークの鐘楼から鋭いスパイアが突き出している。リューベック大聖堂と聖ペトリ教会の間には15~16世紀に築かれた多数の貴族邸が立ち並んでいる。トラヴェ川を渡った西には城郭都市の西門だったホルステン門が立っている。最初のホルステン門は13世紀はじめの建設で、16~17世紀には内門・中門・外門・第2外門と3~4重構造となっていた。現在残るのは1464~78年に建設された中門で、他の門は19世紀に撤去されている。門は右塔・左塔・中央部の3部構成・4階建てで、中央上部に階段破風、左右の塔の上部に尖塔を冠している。旧市街側は塔が隠れるほどの窓で飾られているのに対し、外側の塔には上段を除いて窓が見られず、要塞のような造りとなっている。門の南東に隣接するザルツシュパイヒャーはリューベックの特産物だった塩の倉庫で、16~18世紀に建造された。また、聖マリア教会から北東へ走るメング通りにはトーマス・マン『ブッデンブローク家の人々』のモデルとされるブッデンブロークハウスをはじめ、数多くの歴史的なタウンハウス(2~4階建ての集合住宅)が残されている。

ゾーン3は中央部で聖マリア教会とマルクト広場の一帯だ。リューベック最大の教会堂である聖マリア教会はかつてのリューベックの象徴で、レンガ・ゴシックの最高傑作として北ヨーロッパで盛んに模倣された。12世紀後半に木造教会堂として建設され、ロマネスク様式で再建された後、1250~1350年にゴシック様式に建て替えられた。ラテン十字形・三廊式の教会堂で、ウェストワークに双塔、身廊にフレッシュを備えている。全長103m・身廊の高さ38.5mで、レンガ造の身廊としては世界でもっとも高く、双塔については高さ約125mに達する。ただ、第2次世界大戦中の1942年、イギリス軍の空襲でほとんど破壊され、1947~59年に再建された。マルクト広場は旧市街の中心で、北から東にかけてラートハウス(市庁舎)の建造物群がたたずんでいる。主な建物は、大きな尖塔とゴシック様式の壁・ルネサンス様式の白いポータル(玄関)を持つ本館、1階部分がピロティ(壁がなく柱で構成された開放空間)となっているランゲス・ハウス、ゴシック様式の黒い尖塔群と紋章が特徴的なノイエス・ゲマッハの3棟だ。

旧市街の景観の特徴のひとつが尖塔群で、特に聖ヤコビ教会、エギディエン教会、リューベック大聖堂(双塔)、聖ペトリ教会、聖マリア教会(双塔)という5大教会の7基のスパイアが連なる様は美しく、「7スパイアの町」とも呼ばれている。なお、ゾーン1~3以外の中州部分は第2次世界大戦で破壊された場所が多く、現在では主にビジネス・エリアとなっている。

■構成資産

○ゾーン1:リューベック城修道院-エギディエン通り

○ゾーン2:聖ペトリ教会-リューベック大聖堂

○ゾーン3:聖マリア教会、ラートハウス、マルクト広場

■顕著な普遍的価値

○登録基準(iv)=人類史的に重要な建造物や景観

ハンザ同盟の盟主リューベックの力と歴史的役割を実証する場所であり、ハンザ都市の最高の例で、ハンザと地域を代表する多様な建造物が伝えられている。

■完全性

旧市街の保存地区は中世のハンザ都市の構造を引き継いでおり、ヨーロッパでもきわめて質の高いモニュメントが残されている。旧市街の全体的な印象はこの地域に特有な聖俗両面の建造物によって特徴付けられており、特に5大教会の7つのスパイアのシルエットが景観を際立たせている。

■真正性

旧市街中心部は四方を水に囲まれており、一部は堤防や公園となっている。第2次世界大戦中に甚大な被害を受けたにもかかわらず旧市街の基本的な構造は変わっておらず、貴族の邸宅、ホルステン門をはじめとする公共施設、教会堂、倉庫など、主に15~16世紀の建造物で構成されている。現在に至るまでそのレイアウトは調和の取れた際立った傑作であり、独創的で統一感のある景観は遠方からでも確認することができる。

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