ベルリンのムゼウムスインゼル[博物館島]

Museumsinsel (Museum Island), Berlin

  • ドイツ
  • 登録年:1999年
  • 登録基準:文化遺産(ii)(iv)
  • 資産面積:8.6ha
  • バッファー・ゾーン:22.5ha
世界遺産「ベルリンのムゼウムスインゼル[博物館島]」、旧博物館
世界遺産「ベルリンのムゼウムスインゼル[博物館島]」、旧博物館 (C) Pöllö
世界遺産「ベルリンのムゼウムスインゼル[博物館島]」、新博物館
世界遺産「ベルリンのムゼウムスインゼル[博物館島]」、新博物館
世界遺産「ベルリンのムゼウムスインゼル[博物館島]」、旧国立美術館
世界遺産「ベルリンのムゼウムスインゼル[博物館島]」、旧国立美術館。中央はフリードリヒ・ヴィルヘルム4世騎馬像
世界遺産「ベルリンのムゼウムスインゼル[博物館島]」、ボーデ博物館
世界遺産「ベルリンのムゼウムスインゼル[博物館島]」、ボーデ博物館
世界遺産「ベルリンのムゼウムスインゼル[博物館島]」、ペルガモン博物館
世界遺産「ベルリンのムゼウムスインゼル[博物館島]」、ペルガモン博物館 (C) Yolo

■世界遺産概要

ドイツの首都ベルリンを横断するシュプレー川に浮かぶフィッシャー島、別名ムゼウムスインゼル(博物館島)。19世紀にその北部が「芸術と科学の聖域」として開発され、代々プロイセン王・ドイツ皇帝によって旧博物館、新博物館、旧国立美術館、ボーデ博物館、ペルガモン博物館という5つの博物館・美術館が築かれた。

○資産の歴史

中世、シュプレー川を挟んで北東のベルリンと南西のケルンというふたつの町があり、ケルンはフィッシャー島に広がっていた。14世紀に島に要塞が建設され、15世紀半ばにはブランデンブルク選帝侯フリードリヒ2世鉄歯侯によって島の中央にベルリンのシュタットシュロス(市城)と付属礼拝堂が建設された。これが現代まで続くベルリン王宮とベルリン大聖堂だ。17世紀、フリードリヒ・ヴィルヘルム大選帝侯が都市の再開発に乗り出し、島では宮殿の庭園が拡張されてバロック様式の平面幾何学式庭園となり、ルストガルテンと呼ばれた。湿地だったフィッシャー島北部も開発され、庭園や菜園となった。17世紀半ばに星形要塞が築かれると堀に改築されるなどその一部となったが、要塞は18世紀に多くが撤去された。

19世紀前半、プロイセン王国が主導するベルリンの都市改造でフィッシャー島北部の再開発が進み、国王フリードリヒ・ヴィルヘルム1世によって商用地としての開発が開始された。フリードリヒ・ヴィルヘルム2世は考古学者アロイス・ヒルトの提案を受けて博物館の建設を計画。フリードリヒ・ヴィルヘルム3世は王家が収集したアート・コレクションを収める博物館の建設を決定し、ドイツの新古典主義建築の代表的建築家カール・フリードリヒ・シンケルに設計を依頼。1824~28年にプロイセン初となる公立博物館である王立博物館が建設された。オープンは1830年で、哲学者・美術家ヴィルヘルム・フォン・フンボルトによってコレクションが管理・配置された。シンケルはさらにフィッシャー島北部全域を博物館島=ムゼウムスインゼルにする計画を立案し、ランドスケープ・アーキテクト(景観設計家)であるペーター・ヨセフ・レンネとともに島の改造に着手して道路や運河・橋・噴水などを整備した。王立博物館は新しい博物館の計画を受けて1845年に旧博物館に改称された。

1841年にフリードリヒ・ヴィルヘルム4世が島を「芸術と科学の聖域」とすることを宣言。1843年にシンケルの弟子である建築家フリードリヒ・アウグスト・シュテューラーの設計で新博物館の建設がはじまり、1850年から順次オープンした。この頃、島の中央にたたずむベルリン王宮もシンケルとシュテューラーの計画・設計でバロック様式で改築された(王宮は第2次世界大戦で破壊されて東ドイツが撤去したが、2013年から再建中)。1861年には銀行家ヨアヒム・ハインリヒ・ヴィルヘルム・ワーグナーが亡くなり、遺言によってその膨大なコレクションが寄贈された。これを受けてふたたびシュテューラーが旧国立美術館の設計を担当し、1866年に建設が開始されて1876年にオープンした。

1871年にドイツ帝国が成立し、小さな領邦(諸侯や都市による領土・国家)が乱立していたドイツがプロイセン王国を中心に統一された。1897~1904年にかけてエルンスト・フォン・イネの設計で皇帝(カイザー)の名を冠するカイザー・フリードリヒ博物館が建設された。フリードリヒは1888年に在位わずか99日で急逝した第2代ドイツ皇帝フリードリヒ3世にちなんでおり、1904年の誕生日にオープンした。1956年にこの美術館の創設者のひとりであり、国立博物館のディレクターや総局長などを歴任した美術史家ヴィルヘルム・フォン・ボーデにちなんでボーデ博物館に改称された。この頃、ベルリン大聖堂もネオ・ルネサンス様式で改築されている。1909~30年にはアルフレッド・メッセルの設計でペルガモン博物館が建設され、シンケルとシュテューラーのムゼウムスインゼル計画は完成を迎えた。

○資産の内容

世界遺産の資産はフィッシャー島北部に限定されており、北のボーデ博物館から南の旧博物館にかけての5博物館とその周辺が登録されている。なお、旧博物館の南東に展開しているベルリン王宮やベルリン大聖堂、ルストガルテンなどは含まれていない。

旧博物館は新古典主義様式(ギリシア・ローマ時代のスタイルを復興したクラシック・リバイバル様式)の中でもギリシア神殿を模したグリーク・リバイバル様式で、南に庭園であるルストガルテンを見下ろしている。平面87×55mで、南ファサード(正面)のポルティコ(列柱廊玄関)には18本のイオニア式の柱と両端に角柱が据えられており、列柱廊の内部や周囲は彫像で飾られている。特に彫刻家アウグスト・キスによるアマゾン(アマゾネス)の騎馬像や、アルベルト・ウォルフのライオンの狩人像は名高い。中央に2階建てのドーム建築であるロトンダ(円形の建物。ロタンダ)があり、こちらはローマのパンテオン(世界遺産)をモデルとしたローマン・リバイバル様式となっている。高さ23mのドームは20本のコリント式の円柱で支えられており、パンテオンと同様、中央にオクルスと呼ばれる採光用の穴が空いている。博物館は第2次世界大戦で大きな被害を受けたが1951~66年に再建され、1982年にはロトンダの壁画が復元された。もともと王家のコレクションを収蔵する王立博物館として計画されたが、1904年に古代の美術品を専門に扱うようになり、現在は主にギリシア・ローマ時代の美術品や遺物を展示している。

新博物館は新古典主義様式、あるいは歴史主義様式(中世以降のスタイルを復興した様式)の中でもネオ・ルネサンス様式が色濃い建物で、装飾の少ないシンプルな外観となっている。東ファサードの南北両端にドーム・ホールを内蔵しており、美しいドーム構造が見られる。全体は平面105×40mの「日」形の4階建てで、ふたつの中庭(ギリシア中庭、エジプト中庭)がある。もともと旧博物館に収蔵しきれないコレクションを収めるために建設され、当初は両館を回廊が結んでいた。第2次世界大戦で深刻な被害を受け、1986年に東ドイツが再建をはじめたが、まもなく断念された。本格的な再建プロジェクトは2003年にはじまり、2009年にようやくリオープンした。有名な古代エジプト第18王朝のファラオ・ネフェルティティの胸像のように先史時代のコレクションを中心としており、石器時代・青銅器時代・古代エジプト・古代北欧・ギリシア・ローマなどのホールを有している。

旧国立美術館はローマン・リバイバル様式とネオ・ルネサンス様式の折衷で、ドイツの歴史的建築を集約した形で設計されている。たとえば南ファサードのポルティコにはコリント式の8本の柱が並んでおり、ローマ神殿を彷彿させる。北端にはローマ時代のバシリカ(集会所)の特徴であり、キリスト教建築に転用された半円形の出っ張り=アプス(後陣)を備えている。南ファサードの階段は宮殿や劇場建築を持ち込んだもので、中央にはフリードリヒ・ヴィルヘルム4世の騎馬像がたたずんでいる。建物は平面84×35mほどの長方形の4階建てで地下フロアを有している。第2次世界大戦で大きな被害を受け、東ドイツによって1966年まで修復・再建が進められた。戦後、ベルリンは東西に分割されたが、1968年に西ベルリンに新国立美術館がオープンしたことから現在の名称となった。当初はワーグナーが寄贈したコレクションを展示していたが、現在は古典主義・ロマン主義・印象派・モダニズムなどさまざまな絵画や彫刻を収蔵している。

島の北西端に位置するボーデ博物館は島の突端に合わせて三角形の平面プランを採っている。北西と南東に大小ふたつの長球(楕円を回転させた形)ドームを冠しており、外壁は半分ほど壁と一体化したコリント式のピラスター(付柱。壁と一体化した柱)が1~2階を貫くジャイアント・オーダーとなっている。いずれもバロック様式の特徴で、ネオ・バロック様式で築かれている。不規則な三角形でありながら川から眺めると前面にドームを掲げたバシリカのように見え、均整の取れた安定したスタイルを見せる。大ドームの内部はバロック様式でドームと半ドームが連なっており、中央にはフリードリヒ・ヴィルヘルム大選帝侯の騎馬像が設置されている。一方、小ドームはロココ様式で、ドームの周囲の壁龕(へきがん。装飾用の壁の窪み)には彫像が並べられている。ふたつのドームを結ぶ回廊の一部はバシリカと呼ばれ、フィレンツェのサン・サルヴァトーレ・アル・モンテ教会(世界遺産)を模したルネサンス様式の身廊・側廊が組み込まれている。第2次世界大戦の被害は5館の中でもっとも少なかったが、修復は1987年まで続けられた。彫刻・ビザンツ美術・貨幣・メダルの世界的なコレクションで知られる。

ペルガモン博物館は「コ」形の3ウイング(ウイングは翼廊/翼棟/袖廊。複数の棟が一体化した建造物群の中でひとつの棟をなす建物)構成の博物館で、東のアンティーク博物館、北のイスラム博物館、南の中東博物館からなる。建物はギリシア・ローマ神殿を彷彿させる新古典主義様式で、南西のファサードの頂部はペディメント(頂部の三角破風部分)で飾られ、壁には円柱が半分ほど埋め込まれたピラスターが並んでいる。一方、サイドは角柱のピラスターとなっている。博物館の名前は紀元前3~前2世紀に小アジア(現在トルコのあるアナトリア半島周辺)で栄えたアッタロス朝ペルガモンの首都ペルガモン(世界遺産)の都市遺跡から持ち帰った幅35.64mにもなるゼウスの大祭壇から命名された。他にも、メソポタミアの王国・新バビロニアの首都バビロン(世界遺産)から持ち込んだ紀元前6世紀建設と見られるイシュタル門、2世紀の建設と伝わる小アジアの古都ミレトスの市場門、7~8世紀のイスラム王朝ウマイヤ朝のムシャッタ宮殿のファサードをはじめ、中東の古代遺跡やイスラム美術に関する遺物や美術品を数多く収蔵している。第2次世界大戦で大きな被害を受け、コレクションの一部はこの地を占領したソ連によって持ち去られた。建物は1958年に修復されてリオープンすると、3館まとめてペルガモン博物館と呼ばれるようになった。

■構成資産

○ベルリンのムゼウムスインゼル[博物館島]

■顕著な普遍的価値

本遺産は登録基準(vi)「価値ある出来事や伝統関連の遺産」でも推薦されていたが、その価値は認められなかった。

○登録基準(ii)=重要な文化交流の跡

ベルリンのムゼウムスインゼルは1世紀以上にわたる近代ミュージアム・デザインの進化を示す独創的なミュージアム建築アンサンブルである。

○登録基準(iv)=人類史的に重要な建造物や景観

近代の博物館は啓蒙時代に起源を持つ社会現象であり、フランス革命まですべての人々の間に拡大した。ムゼウムスインゼルはこうした思想のもっとも際立った例であり、物理的に具現化し、都市中心部の象徴的な場所に配された。

■完全性

ムゼウムスインゼルは都市のアクロポリス(宗教・芸術の中心地)の象徴的重要性を持つ公共広場の卓越した例であり、顕著な普遍的価値を表現するために必要なすべての要素を含んでいる。資産は稀有な計画と建築の連続性を有し、1世紀以上にわたってコンセプトが継続的に実施された一貫性が強調されており、博物館・美術館の建設の各段階でその完全性と都市的・建築的一貫性が保証されている。

■真正性

大戦中の被害とその後の長期にわたる保全・修復作業にもかかわらず、ムゼウムスインゼルは歴史的建造物として、あるいはその機能・デザイン・文脈といった点で高度な真正性を保持してきた。歴史的特徴と博物館・美術館の役割の発展という点で、真正性は展示されているコレクションの特徴・スタイル・テーマ内容、あるいはコレクションと建築空間の有機的なつながりの中で引き継がれている。現在実施されている保全のための人的介入も真正性の要求を高度に尊重しており適切である。

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