ミストラの考古遺跡

Archaeological Site of Mystras

  • ギリシア
  • 登録年:1989年、2007年名称変更
  • 登録基準:文化遺産(ii)(iii)(iv)
  • 資産面積:54.43ha
  • バッファー・ゾーン:1,202.52ha
世界遺産「ミストラの考古遺跡」、女子修道院として活動を続けているパンダナサ修道院。建物は中央聖堂であるカトリコン
世界遺産「ミストラの考古遺跡」、女子修道院として活動を続けているパンダナサ修道院。建物は中央聖堂であるカトリコン
世界遺産「ミストラの考古遺跡」、アギオス・ディミトリオス聖堂
世界遺産「ミストラの考古遺跡」、アギオス・ディミトリオス聖堂
世界遺産「ミストラの考古遺跡」、エヴァンゲリストリア聖堂
世界遺産「ミストラの考古遺跡」、エヴァンゲリストリア聖堂
世界遺産「ミストラの考古遺跡」、古都スパルタを見下ろす高さ620mほどの山中に残る城塞跡
世界遺産「ミストラの考古遺跡」、古都スパルタを見下ろす高さ620mほどの山中に残る城塞跡
世界遺産「ミストラの考古遺跡」、ミストラ宮殿
世界遺産「ミストラの考古遺跡」、ミストラ宮殿 (C) Aeleftherios
世界遺産「ミストラの考古遺跡」、ヴロントチオウ修道院、パナギア・ホデゲトリア聖堂のフレスコ画
世界遺産「ミストラの考古遺跡」、ヴロントチオウ修道院、パナギア・ホデゲトリア聖堂のフレスコ画

■世界遺産概要

ミストラは13世紀に十字軍によってペロポネソス半島南部のタイゲトス山脈内に築かれた城郭都市遺跡で、ラテン帝国下のアカイア公国、後にはビザンツ帝国(東ローマ帝国)下のモレア専制公領の都市として繁栄した。山中には城郭都市の遺構やビザンツ様式(ミストラ様式)の教会堂が残されてり、パレオロゴス朝ルネサンスの美しい作品で彩られている。なお、本遺産は「ミストラ "Mystras"」の名称で登録されたが、2007年に改称されている。

○資産の歴史と内容

1202年に結成された第4回十字軍は地中海貿易の独占をもくろむヴェネツィア(世界遺産)の意向を受けて、エルサレム(世界遺産)ではなくビザンツ帝国の首都コンスタンティノープル(現・イスタンブール。世界遺産)を襲撃し、1204年にラテン帝国を打ち立てた。この遠征に参加し、ギリシアのペロポネソス半島を与えられたフランスの騎士ギヨーム1世・ド・シャンリットは半島南部を占領すると、1205年にアカイア公国(首都アンドルヴィル)を建国した。

第4代アカイア公ギヨーム2世・ド・ヴィルアルドゥアンは1248年にペロポネソス半島の統一に成功するが、タイゲトス山脈ではスラヴ人が抵抗を続けており、これを監視・制圧するために古都スパルタの西6kmほどの山中にミストラ城、マニ半島に大マニ城といった城塞群を建設して対抗した。しかし、1259年のペラゴニアの戦いでアカイア公国はビザンツ帝国の一派が建国したニカイア(ニケーア)帝国に敗れ、ギヨーム2世は捕らえられてしまう。1261年にはニカイア帝国のミカエル8世パレオロゴスがコンスタンティノープルを奪還してラテン帝国が滅亡し、ビザンツ帝国が復活。ギヨーム2世はビザンツ帝国の支配下に入り、ミストラ城などを割譲することで解放された。

ビザンツ帝国領となったペロポネソス半島にはケファリと呼ばれる総督府が設置され、首都はモネンヴァシア、後にミストラに置かれた。ローマ・カトリックから正教会に移行したことで十字軍時代の多くの貴族がミストラを去った。1349年にはビザンツ皇帝ヨアニス6世カンダクジノスが次男のマヌイル・カンダクジノス専制公をミストラに送り込み、モレア専制公領が成立した。

マヌイルはミストラ城を改築してミストラ宮殿とし、ミストラを市壁で囲い、要所要所に要塞や塔を建設して城郭都市として整備した。またこの時代、コンスタンティノープルではビザンツ帝国最後の王朝パレオロゴス朝の下で古代ギリシアやローマの研究が進められ、「パレオロゴス朝ルネサンス」と呼ばれる華やかな文化が開花した。特に発達したのがキリスト教の教会芸術で、ビザンツ建築による教会堂や、モザイク画(石やガラス・貝殻・磁器・陶器などの小片を貼り合わせて描いた絵や模様)やフレスコ画(生乾きの漆喰に顔料で描いた絵や模様)による壁画、聖画像イコンの絵画などが活発に制作された。ミストラはコンスタンティノープル、テッサロニキ(世界遺産)とともにパレオロゴス朝ルネサンスの中心を担った。

ミストラでは14世紀に数多くの教会堂が築かれ、パレオロゴス朝ルネサンスのフレスコ画が描かれた。マヌイルが14世紀半ばに築いたのがアギア・ソフィア聖堂で、宮殿付属聖堂として使用された。正方形の内部にギリシア十字形を収めた内接十字式(クロス・イン・スクエア式)の教会堂となっている。同時代にマヌイルが支援した修道院がペリヴレプトス修道院で、新約聖書の場面を描いた数々のフレスコ画はきわめて評価が高い。ペリヴレプトス修道院と並ぶフレスコ画の宝庫として知られるのが1428年に建設されたパンダナサ修道院だ。修道院のカトリコン(中央聖堂)はローマ・カトリックとビザンツの折衷で、内部に多数のフレスコ画を収めている。アギオス・ディミトリオス聖堂は13世紀半ばの創建で、もともと長方形の三廊式(身廊とふたつの側廊からなる様式)バシリカ(ローマ時代の集会所に起源を持つ長方形の建物)だったが、15世紀にドームを持つ正方形の内接十字式に改修された。このようにバシリカをベースに正方形や多角形の平面プランを持つ特有の様式は「ミストラ様式」と呼ばれている。アギオス・ディミトリオス聖堂のドームのフレスコ画や床のレリーフは名高く、聖堂にはメトロポリタン宮殿が隣接している。ヴロントチオウ修道院は13~14世紀に築かれた修道院コンプレックスで、八角形のアギオス・テオドロス聖堂や五角形のパナギア・ホデゲトリア聖堂を内包している。パナギア・ホデゲトリア聖堂は同修道院のカトリコンで、すぐれたフレスコ画が壁面を覆っている。これ以外にもミストラ様式を代表するオディギトリア聖堂(アフェンディコ聖堂)、八角形のアギイ・セオドリ聖堂、すぐれた彫刻作品で知られるエヴァンゲリストリア聖堂などが知られている。

15世紀にモレア専制公領はビザンツ帝国から半ば独立し、オスマン帝国の圧力を受けて衰退する帝都コンスタンティノープル以上の繁栄を見せて「モレアの驚異」と讃えられた。哲学者ゲオルギオス・ゲミストス・プリソンをはじめコンスタンティノープルの優秀な芸術家や科学者・哲学者がミストラに集い、数々の作品を残した。1443年に専制公に就いたコンスタンティヌスはビザンツ帝国再興の野望を抱き、すでにオスマン帝国の手に落ちていたギリシア本土に侵攻。1448年にはコンスタンティヌス11世としてビザンツ皇帝に就任し、ミストラのアギオス・ディミトリオス聖堂で戴冠してコンスタンティノープルに赴いた。

モレアの侵攻に対してオスマン皇帝ムラト2世はペロポネソス半島を襲撃。1451年に帝位に就いたメフメト2世はコンスタンティノープルを攻撃し、1453年に攻め落としてビザンツ帝国は滅亡した。コンスタンティヌス11世は自ら剣を取り、敵陣に攻め込んで散ったという。オスマン帝国はさらに軍を進めてペロポネソス半島に侵入。1460年に専制公ディミトリオス・パレオロゴスが降伏して専制公領も消滅した。

ミストラはオスマン帝国モレア県の県都としてありつづけた。修道院や教会堂の多くはモスクに改装されたが、大幅に建て替えられることなく維持された。信教の自由も認められたため、キリスト教徒も生活を続けることができた。

ミストラは1687~1715年にヴェネツィアの支配を受けた後、ふたたびオスマン帝国の支配下に戻ったが、政治的混乱の中で衰退した。1770年にはペロポネソス半島でマグナの反乱が起こり、これを制圧したオスマン帝国のアルバニア人によってミストラをはじめ多くの都市が破壊された。1821~29年のギリシア独立戦争でミストラはいち早く解放されたが、1825年にオスマン帝国のエジプト総督イブラヒム・パシャによる襲撃を受けて徹底的に破壊された。1830年にギリシア王国が独立してオソン1世が王位に就くとミストラの再興を目指したが、あまりの破壊の様子に断念し、スパルタに新たな都市が建設された。こうしてミストラは放棄され、廃墟となった。

■構成資産

○ミストラの考古遺跡

■顕著な普遍的価値

本遺産の推薦を受けて文化遺産の調査・評価を行うICOMOS(イコモス=国際記念物遺跡会議)は、保護体制が不十分であり、真正性を損なうような不適切な修復・復元が行われているとして世界遺産リストへの記載に反対を表明した。これに対してギリシアは世界遺産委員会で完全性と真正性を損なう可能性のある修復や復元を慎み、保護を進めることを保証すると強く主張した。これが認められて世界遺産リストへの登録が決定した。

○登録基準(ii)=重要な文化交流の跡

ミストラはパレオロゴス朝ルネサンスの芸術的成果で知られる中世都市であり、後期ビザンツとポスト・ビザンツの芸術文化の発展に大きく貢献した。ミストラ、後期ビザンツ、ポスト・ビザンツの影響は特に絵画においてゲラキ、マニ、ロンガニコス、レオンタリ、ロイノスといったペロポネソス半島のモニュメントに見ることができる。後期ビザンツの期間中、専制公領の芸術の輝きはクレタ島の絵画をはじめギリシア全土で展開された芸術の潮流につねに影響を与えており、コンスタンティノープルの芸術とともに新たな芸術文化を構築した。一例がクレタ島やアイトリア、イペイロス(イピロス)で活動した専制公領出身のクセノス・ディゲニスやクレタ島のフォカス家といったポスト・ビザンツの画家たちだ。ミストラの遺産は建築や絵画だけでなく、知性の面でも明確な価値を持っている。一例がミストラで活動を行ったネオ・プラトニズムの哲学者ゲオルギオス・ゲミストス・プリソンで、プラトン哲学の解釈と古代ギリシアの文献研究で西ヨーロッパの関心を呼び起こし、後のルネサンスに影響を与えた。

○登録基準(iii)=文化・文明の稀有な証拠

ミストラはビザンツ都市のユニークな例であり、ビザンツ帝国末期に繁栄した都市社会の稀有な証拠である。ビザンツ帝国の地方の政治的・行政的中心として機能し、類を見ない特有の知的・文化的・芸術的成果を残した。

○登録基準(iv)=人類史的に重要な建造物や景観

ミストラは精巧な空間設計を持つ後期ビザンツ城郭都市(要塞都市)の卓越した例であり、きわめてよく保存されている。丘の上に城塞、その下に城塞・城壁に守られたふたつの空間を持ち、宮殿・高級住宅・住宅・教会・修道院・上下水道・工房・商業施設などが築かれた。教会堂にはさまざまな建築様式が用いられたが、ミストラ様式(ミストラ混合様式。三廊式のバシリカと5つのドームを冠した正方形の内接十字式クロス・ドーム・バシリカを合わせた様式)と呼ばれるものが多い。ミストラ宮殿はほとんど残されていないビザンツ帝国の宮殿の数少ない例であり、印象的な住宅の数々はビザンツ帝国の最後の2世紀における都市住民の質の高い生活の様子を示している。

■完全性

ミストラは13~19世紀に使用された居住地であり、新都市スパルタの建設により次第に放棄されて無人地帯となった。このため後期ビザンツの遺構が新たな開発を受けることなく残されており、完全性を高いレベルで維持している。資産には政治的・宗教的に重要な遺構の数々が含まれており、顕著な普遍的価値を構成する要素をすべて内包している。ミストラでもっとも重要な宗教モニュメントがメトロポリス宮殿を含むアギオス・ディミトリオス聖堂、パナギア・ホデゲトリア聖堂、パンダナサ修道院の3件で、これらはいまなお宗教的機能を維持している。中世都市に対する潜在的なリスクとしては風雨の侵食や地震が挙げられる。

■真正性

ミストラは後期ビザンツの記念碑的な建築コンプレックスで、土地計画・街路計画・世俗建築・宗教建築・芸術作品といった点で明確でよく保存された証拠を示しており、数世紀にわたって人的介入を受けることなく伝えられた本物の都市遺跡である。この遺産を訪れた訪問者は数々の特徴的な建造物群によってビザンツ文化のさまざまな側面を学ぶことができる。資産内の建造物の修復は真正性を保持し、顕著な普遍的価値を損なうことがないよう配慮されており、科学的な調査と研究をベースに伝統的な工法や素材を用いて修復作業が進められている。

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