ボヤナ教会

Boyana Church

  • ブルガリア
  • 登録年:1979年
  • 登録基準:文化遺産(ii)(iii)
  • 資産面積:0.68ha
  • バッファー・ゾーン:13.55ha
世界遺産「ボヤナ教会」、左から西堂・中央堂・東堂。手前下はブルガリア王フェルディナント1世の王妃エレオノーラの墓
世界遺産「ボヤナ教会」、左から西堂・中央堂・東堂。手前下はブルガリア王フェルディナント1世の王妃エレオノーラの墓 (C) Ivano Giambattista
世界遺産「ボヤナ教会」、こちらも左から西堂・中央堂・東堂。中央堂と東堂の右側、半円に張り出した部分がアプス
世界遺産「ボヤナ教会」、こちらも左から西堂・中央堂・東堂。中央堂と東堂の右側、半円に張り出した部分がアプス (C) Deensel
世界遺産「ボヤナ教会」、東堂内部、中央奥がアプス。イエスやマリア、使徒、聖人といった人物像が中心となっている
世界遺産「ボヤナ教会」、東堂内部、中央奥がアプス。イエスやマリア、使徒、聖人といった人物像が中心となっている (C) Interact-Bulgaria
世界遺産「ボヤナ教会」、東堂の天井部。ドームの中心は「全能者ハリストス」で、イエスが見下ろしている
世界遺産「ボヤナ教会」、東堂の天井部。ドームの中心は「全能者ハリストス」で、イエスが見下ろしている (C) Ann Wuyts
世界遺産「ボヤナ教会」、中央堂1階南側のアルコソリウム。フレスコ画は「律法学者の中のハリストス」
世界遺産「ボヤナ教会」、中央堂1階南側のアルコソリウム。フレスコ画は「律法学者の中のハリストス」(C) Mpb eu
世界遺産「ボヤナ教会」、13世紀に中央堂を寄進したカロヤンとデシスラヴァ夫妻
世界遺産「ボヤナ教会」、13世紀に中央堂を寄進したカロヤンとデシスラヴァ夫妻 (C) Потребител Kandi

■世界遺産概要

ボヤナ教会はブルガリアの首都ソフィア郊外のヴィトシャ山麓にたたずむブルガリア正教会の教会堂だ。3堂構成で、それぞれ10~11世紀・13世紀・19世紀に築かれた東堂・中央堂・西堂が直線上に並ぶ形で結ばれている。ギリシア十字式プランの教会建築と、11~13世紀・15〜17世紀・19世紀とさまざまな時代のフレスコ画(生乾きの漆喰に顔料で描いた絵や模様)は文化的価値が高く、特に東堂と中央堂を彩る13世紀のタルノヴォ派のフレスコ画は保存状態がきわめて良好で、中世ブルガリア美術のみならずビザンツ美術の歴史に残る傑作として名高い。

○資産の歴史と内容

ブルガリアの地にはイエスの使徒であるパウロやアンデレらによってキリスト教がもたらされ、4世紀以降には有力な宗教のひとつとなった。

第1次ブルガリア帝国(681~1018年)時代の9世紀、国王ボリス1世(10世紀はじめまでは皇帝ではなく国王と呼ばれた)はビザンツ帝国(東ローマ帝国)の圧力を受けて正教会に改宗し、キリスト教を国教化してブルガリア大主教区が成立した。これ以降、ブルガリアは東ヨーロッパのキリスト教世界の中心的な位置を占め、各地への宣教に貢献した。10世紀はじめには独立正教会として認められてブルガリア正教会が成立し、首長であるコンスタンティノープル総主教に次ぐ総主教位を与えられた。しかし、1018年に第1次ブルガリア帝国がビザンツ帝国(東ローマ帝国)に滅ぼされると、総主教位は剥奪され、オフリド大主教区に格下げされた。

この時代、10世紀後半~11世紀初頭に建設されたのがボヤナ教会の東堂だ。正教会の教会堂らしい「+」形のギリシア十字式だが、四角形の外観の内部にギリシア十字形の内部空間を持つ内接十字式(クロス・イン・スクエア式)で、主にレンガで築かれた。中央の交差ヴォールト(アーチを並べた筒型ヴォールトを交差させた「×」形のヴォールト)天井の上にクロッシング塔(十字形の交差部に立つ塔)を有し、東に半球状のアプス(後陣)が張り出しており、このアプスに至聖所が設けられた。11~12世紀にかけてフレスコ画が描かれたが、この時代のものはアプスの下部、北壁面の下部、西壁面の上部などほんの一部にしか残っていない。

12世紀に第2次ブルガリア帝国(1187~1396年頃)がはじまり、13世紀はじめに皇帝イヴァン・アセン2世がブルガリア正教会を独立正教会として認めさせ、総主教位を回復した。

この頃、ビザンツ帝国は最後の王朝であるパレオロゴス朝(1261~1453年)の時代で、オスマン帝国の圧力を受けて国としては衰退していたが、先進的なイスラム文化の刺激を受けて文化的には成熟していた。そしてギリシア・ローマの科学や芸術を中心に古典復興を進め、パレオロゴス朝ルネサンスが開花した。ブルガリアでもヘレニズム美術の影響が色濃い独自のスタイルが発達し、首都タルノヴォ(現・ヴェリコ・タルノヴォ)の芸術家が中心を担ったことから「タルノヴォ派」と呼ばれた。その特徴は写実的で色鮮やかなイコン(聖像)で、装飾写本やテンペラ画(顔料に接着剤となるバインダーを混ぜた塗料で描いた絵画)、フラスコ画が名を馳せた。貴族たちはブルガリア各地の修道院や教会を支援し、タルノヴォ派の建築家や芸術家を送り込んで建物や装飾を寄進した。

13世紀半ば、第2次ブルガリア皇帝コンスタンティン・ティフの従兄弟とされる貴族のカロヤンと妻のデシスラヴァがボヤナ教会に中央堂を寄進した。中央堂は東堂の西にレンガと石で建設され、東堂にナルテックス(拝廊)を増築して両者を接続した。建物は内接十字式で、2階建ての1階は家族墓、2階は私設礼拝堂として設計された。1階は筒型ヴォールト(筒を半分に割ったような形の連続アーチ)天井で、部屋は廊下のような長方形で、南北にアルコソリウム(埋葬所として壁面に設置されたアーチ型の窪み)を備えている。2階は東堂と同じ構成で、交差ヴォールト天井でクロッシング塔がそびえている。夫妻はタルノヴォ派の芸術家の支援者でもあり、中央堂と東堂をフレスコ画で覆った。ナルテックスの碑文には1259年の日付が刻まれている。

フレスコ画の作者は不明ながらタルノヴォ派の芸術家たちで、後の時代に「ボヤナ・マスター」と呼ばれた。黒を基調とた中で、人々の背後の光輪が光り輝いており、色鮮やかな人物像が際立っている。人物が多いのが特徴で、中央堂と東堂には240人以上が描かれている。東堂のドーム天井を飾るのは「全能者ハリストス(ハリストスは正教会でキリストを示す)」で、その下に天使と4人の福音記者(マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ)を伴っている。身廊には「受胎告知」「最後の晩餐」「ハリストスの磔刑」といった『新約聖書』の場面をはじめ、イエスやマリア、使徒、聖人らのさまざまな姿が描き出されている。中央堂の2階の礼拝堂も同様で、イエスやマリア、『新約聖書』を主題としている。一方、東堂のナルテックスから中央堂の1階にかけて、イエスやマリアの他に、教会の守護聖人である聖ニコラオス(聖ニコライ)と聖パンテレイモンのさまざまな場面や、ブルガリアの聖人であるリラのイオアン(イヴァン・リルスキ)、聖パラスケヴァ、シリアのエフレム、寄進者であるカロヤン夫妻や皇帝コンスタンティン・ティフといった多彩な人物が描かれている。

第2次ブルガリア帝国はオスマン帝国に敗れ、14世紀末に滅亡した。タルノヴォなどではオスマン帝国によって多くの修道院や教会堂が破壊され、あるいはイスラム教の礼拝堂であるモスクに建て替えられた。そんな中でボヤナ教会は難を逃れた。

19世紀半ばに地元住民の寄付を得て西堂が建設され、1882年に完成した。高い天井を持つ四角形の建物で、控えの間として建てられたため目立った装飾はないが、一部にフレスコ画が描かれた。当初は東堂と中央堂を取り壊して大きな教会堂を建設する予定だったが、ブルガリア王フェルディナント1世の王妃エレオノーラが中止させたという。彼女の願いもあってフェルディナント1世は教会堂の周囲を公園として整備し、また彼女の遺言にしたがってエレオノーラは教会堂の南に埋葬された。

■構成資産

○ボヤナ教会

■顕著な普遍的価値

○登録基準(ii)=重要な文化交流の跡

建築的な観点から、ボヤナ教会はドームを冠し、豊かな装飾を持つファサードを有し、陶製の装飾に彩られたギリシア十字式平面プランの教会堂の純粋な作品のひとつである。特にすばらしい壁画に彩られた中世のもっとも卓越したモニュメントのひとつといえる。

○登録基準(iii)=文化・文明の稀有な証拠

ボヤナ教会は10世紀・13世紀・19世紀という異なる時代に建てられた3堂からなり、全体として統一されている。

■完全性

ボヤナ教会の完全性は十分に保証されている。1917年に教会堂の周囲に公園が設置されたことで近代的な交通の影響から隔離され、安全が確保された。資産は歴史的な侵食や他の破壊的な脅威からも無傷で保たれている。資産とバッファー・ゾーンには3つのエリアが設定されており、それぞれ適切な管理策が講じられている。

■真正性

ボヤナ教会では10~11世紀・13世紀・19世紀の3期の建築フェイズにおけるコンセプト・形状・発展を明確に確認することができる。これらに必要な保全と修復作業はすでに完了しており、十分な証拠により、後世に追加されたファサードの下塗りが除去され、オリジナルの壁面による外観を取り戻した。

内部の11~12世紀のフレスコ画断片、13世紀のフレスコ画および1882年に増設された控えの間のフレスコ画を保護・公開するために洗浄および補充・保全作業が行われ、2008年に完了した。現在は空調設備が整えられており、常時管理されている。

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