シャンパーニュの丘陵、メゾンとカーヴ

Champagne Hillsides, Houses and Cellars

  • フランス
  • 登録年:2015年、2016年名称変更
  • 登録基準:文化遺産(iii)(iv)(vi)
  • 資産面積:1,101.72ha
  • バッファー・ゾーン:4,251.16ha
世界遺産「シャンパーニュの丘陵、メゾンとカーヴ」、オーヴィリエの町とブドウ園。左端がオーヴィリエのサン=ピエール修道院
世界遺産「シャンパーニュの丘陵、メゾンとカーヴ」、オーヴィリエの町とブドウ園。左端がオーヴィリエのサン=ピエール修道院 (C) October Ends
世界遺産「シャンパーニュの丘陵、メゾンとカーヴ」、オーヴィリエのサン=ピエール修道院の修道院教会であるサン=シンドルフ教会
世界遺産「シャンパーニュの丘陵、メゾンとカーヴ」、オーヴィリエのサン=ピエール修道院の修道院教会であるサン=シンドルフ教会 (C) October Ends
世界遺産「シャンパーニュの丘陵、メゾンとカーヴ」、アイのメゾンであるコレのカーヴ
世界遺産「シャンパーニュの丘陵、メゾンとカーヴ」、アイのメゾンであるコレのカーヴ (C) ADT Marne
世界遺産「シャンパーニュの丘陵、メゾンとカーヴ」、マレイユ=シュール=アイのシャトー・ド・モンテベッロ
世界遺産「シャンパーニュの丘陵、メゾンとカーヴ」、マレイユ=シュール=アイのシャトー・ド・モンテベッロ (C) G.Garitan
世界遺産「シャンパーニュの丘陵、メゾンとカーヴ」、ランスのサン=ニケーズの丘に立つサン=ニケーズ教会
世界遺産「シャンパーニュの丘陵、メゾンとカーヴ」、ランスのサン=ニケーズの丘に立つサン=ニケーズ教会 (C) G.Garitan
世界遺産「シャンパーニュの丘陵、メゾンとカーヴ」、エペルネーのシャンパーニュ通りにたたずむモエ・エ・シャンドンのオテル・モエ(中央奥)とオテル・トリアノン・エ・シャンドンの庭園(手前)
世界遺産「シャンパーニュの丘陵、メゾンとカーヴ」、エペルネーのシャンパーニュ通りにたたずむモエ・エ・シャンドンのオテル・モエ(中央奥)とオテル・トリアノン・エ・シャンドンの庭園(手前)(C) G.Garitan
世界遺産「シャンパーニュの丘陵、メゾンとカーヴ」、ブドウ栽培とワイン醸造の研究所があり、フィロキセラ被害からの回復に多大な貢献をしたフォール・シャブロル
世界遺産「シャンパーニュの丘陵、メゾンとカーヴ」、ブドウ栽培とワイン醸造の研究所があり、フィロキセラ被害からの回復に多大な貢献をしたフォール・シャブロル

■世界遺産概要

フランス北東部グラン・テスト地域圏のマルヌ渓谷に位置し、アルデンヌ県とマルヌ県にまたがる世界遺産で、シャンパーニュ地方の特産であるスパークリング・ワイン「シャンパン」の生産に関する産業遺産とそれを取り巻く文化的景観が登録されている。特徴的なのはシャンパン生産者である「メゾン」の施設と、瓶内二次発酵のための広大な地下貯蔵施設「カーヴ」で、具体的にはブドウ園や収穫・圧搾・醸造・瓶詰め・保管・販売・流通施設、メゾンのオフィスや経営者のシャトー(宮殿・城館)、関連の公共施設や宗教施設・インフラ、周辺の自然景観を含む文化的景観などが含まれている。構成資産は3地域(オーヴィリエとアイおよびマレイユ=シュール=アイの歴史的丘陵、ランスのサン=ニケーズの丘、エペルネーのシャンパーニュ通り)にある14件。

世界遺産名について、正式名称は英語で "Champagne Hillsides, Houses and Cellars"、フランス語で "Coteaux, Maisons et Caves de Champagne"となっている。英語の "House"、フランス語の "Maison" はワイン生産者、英語の "Cellar"、フランス語の "Cave" は地下貯蔵施設を示す。シャンパーニュ地方のメゾンやカーヴの特異性から日本語名はあえて「メゾンとカーヴ」とした。

また、"Champagne" はおおよそフランス語で「シャンパーニュ」、英語で「シャンペイン」と発音される。日本語のシャンパーニュ、シャンパン、シャンペンはいずれもこれに由来する。本サイトでは地方名はシャンパーニュ、飲み物としてはシャンパンと表記する。

本遺産のフランス語名について、当初は "Coteaux, maisons et caves de Champagne" で世界遺産リストに登録されたが、2016年の第40回世界遺産委員会で小文字と大文字の調整が行われ、現在の名称となった。

○資産の歴史

ブドウは中東を原産とする植物で、ブドウ果汁を発酵させて造るワインはメソポタミア文明やエジプト文明で盛んに作られていた。やがてフェニキア人がヨーロッパに持ち込み、ローマ人が広く栽培を開始した。シャンパーニュ地方でブドウが栽培されたのはガロ・ローマ(共和政・帝政ローマ時代に征服されたガリアの地、あるいはその文化)時代の1~2世紀頃と考えられている。

6~7世紀には修道院によって大々的に開拓され、いわゆる修道院ワインの生産を行った。『新約聖書』では、聖餐(せいさん。最後の晩餐)においてイエスは「私の血である」とワインを十二使徒に分け与え、これにより神と預言者モーゼの間で結ばれた古い契約=旧約は刷新され、新たな契約=新約が結ばれたとする。このためワインはミサにおいてきわめて重要な役割を果たした。修道院はこうした理由もあってブドウを栽培してワインを醸造したほか、輸出による資金の獲得や地域開発の目的もあり、組織的に生産を行った。

中世も後半になるとそれぞれの修道会は大学を出た修道士を各地に派遣し、先端的な技術や医療などを地元に還元した。12~13世紀、修道院が主導してブドウ栽培とワイン醸造の技術を向上させ、一帯は有力な赤ワインの産地となった。

シャンパーニュ地方の主要都市ランスのノートル=ダム大聖堂、通称ランス大聖堂(世界遺産)はフランク王国メロヴィング朝を打ち立てたクローヴィス1世が496年頃にローマ・カトリックに改宗した場所であり、10世紀にカペー朝が起こってフランス王国になってからはフランス王の戴冠式の場として確立された。戴冠式にはシャンパーニュ地方の赤ワインが振る舞われ、パリ(世界遺産)を中心としたフランス北部の貴族の寵愛を受けた。特にこの地方のワインを愛したといわれるのがフランソワ1世で、アイの村のワインを最高の逸品として高く評価したという。

そうはいっても赤ワインの品質に関して、南に隣接するブルゴーニュ地方(世界遺産)や地中海方面のサン=テミリオン地方(世界遺産)などに勝るのは難しかった。一帯は北緯49~50度と、良質なブドウ栽培の北限とされた北緯50度に近く、天気に大いに左右された。夏は涼しく冬は暖かい西岸海洋性気候に属し、1年を通して穏やかだが、内陸部で大陸性気候の影響も受けているため、冬に気温が急激に下がって氷点下まで落ち込むこともあった。雨は多くないものの、1年中一定の雨が降る。ワイン用のブドウ栽培において、冬から春に植え付け・剪定を行い、夏から秋に実を付けて収穫を行う関係で、冬に雨が多く、夏に雨が少ない気候が理想的とされる。これを満たす地中海性気候に比べてワイン生産に適しているとは言いがたかったが、夏の穏やかな日差しと気温はワインの長期熟成には適していた。

加えて土壌も一長一短だった。シャンパーニュ地方の土壌の多くは石灰質で、特に中生代白亜紀(1億5,000万~6,600万年前)に堆積したチョーク(白亜。未固結の石灰岩)の割合が高い。石灰質の土壌は水に溶けやすく浸透しやすい一方で、チョークは多孔質であるため一定の水を含むことができる。このため水はけがよく、同時に保水力がある土壌を形成した。ワイン用のブドウの土壌は、ブドウの実に養分を集中させるためにある程度痩せていた方がよいとされるが、場所によってはあまりに貧栄養だった。しかし、こうした特徴的な気候と土壌が他に類のないテロワール(耕作における環境的特性)を生み出した。

17世紀にシャンパーニュ地方でワインに関する数々のイノベーションが起こる。伝説では、オーヴィリエにあるベネディクト会の修道院(サン=ピエール修道院)に所属する盲目の修道士ピエール・ペリニヨン(1638~1715年)が以下の改革を行ったという。

まずワインについて、シャンパーニュ地方ではピノ・ノワールやムニエといった黒ブドウから赤ワインが作られていたが、最高品質とは言いがたかった。かといってシャルドネなどの白ブドウから作る白ワイン(ブラン・ド・ブラン)は渋く、後述する再発酵も起こりやすくて十分なものが作れなかった。そこでペリニヨンは黒ブドウをゆっくりと数回に分けて圧搾し、皮や種を排除することで白ワイン(ブラン・ド・ノワール)を作ることに成功した(黒ブドウを皮や種を含めて発酵させると果皮の色素が付いて赤ワインとなる)。また、気候ゆえに品質が安定しなかったが、各地で採れる黒ブドウを集めてブレンドすることで品質を安定させた(アッサンブラージュ)。また、ワインの酸化や腐敗を防ぐためにイギリスで発明されたガラス瓶を使用し、密封するためにコルク栓を導入した。これらも品質の向上に貢献した。

この頃、特に問題となっていたのが「泡」の存在だ。収穫後、樽の中で一次発酵させることでブドウの糖分が酵母によってエタノールと二酸化炭素に分解され(アルコール発酵)、二酸化炭素が抜けることでスティル・ワイン(発泡していない一般的なワイン)になる。しかし、気温が低いシャンパーニュ地方では冬に気温が下がって一次発酵が途中で停止することがあった。この状態で瓶詰めすると、気温が上がったところで発酵が再開され、発生した二酸化炭素によって瓶内の気圧が上がってしばしば爆発した。この重大な欠陥を修正するためペリニヨンは泡をなくす方法を試行錯誤した。しかし、イギリスの貴族の間でこの泡立つワインが流行したことで意図的に発泡性のワインを作る方向に転換し、二次発酵を制御し、より強力な耐圧瓶とコルク栓を使用してスパークリング・ワインを完成させた。それまでワインは一般的に「ヴァン・ド・フランス(フランスのワイン)」と呼ばれていたが、この頃から「ヴァン・ド・シャンパーニュ」(シャンパーニュのワイン)と呼ばれるようになり、シャンパンが誕生した。フランスの太陽王ルイ14世もシャンパンをいたく気に入ったという。

現在、シャンパンはシャルドネ、ピノ・ノワール、ムニエを中心に品種・産地・年代が異なるブドウをアッサンブラージュし、樽で一次発酵させた後、糖分と酵母を加えて瓶詰めし(ティラージュ)、地下セラーであるカーヴに15か月以上保管して二次発酵させている。その後、逆さにして澱(おり。沈殿物)を瓶口に集め(ルミアージュ)、澱を冷凍して取り除き(デゴルジュマン)、場合によってはさらにワインや糖分を追加して味を調節する(ドサージュ)。実際にどこまでペリニヨンが関与したかは諸説あるが、こうした「シャンパーニュ式」と呼ばれる製法の基礎を築いたペリニヨンは「シャンパンの父」と讃えられた。

17世紀後半から18世紀はじめに製法が確立されたシャンパンは当初、主にランスやエペルネー、アイで生産されていた。シャンパンは各種のブドウをブレンドし、樽と瓶で発酵させるため、農園だけでなく各種の施設・設備・ネットワークが必要で、シャンパーニュ・メゾンと呼ばれる生産者が活躍した。こうしてルイナール(創業1729年)、モエ・エ・シャンドン(同1743年)、ヴーヴ・クリコ(同1772年)、パイパー・エドシック(同1785年)、ボランジェ(同1829年)、ポメリー(同1836年)、クリュッグ(同1843年)、シャルル・エドシック(同1851年)といった名だたるメゾンが誕生した。

19世紀にフランスで産業革命が進展したが、羊毛業などの衰退を受けてシャンパン生産に参入する投資家も多く、こうした新興メゾンがワイン生産の工業化を促した。ブドウ園もランス周辺のサン=ニケーズの丘やアイ周辺のマレイユ=シュール=アイなど、それまでの生産地の周辺にまで広がった。1850年代にはパリとストラスブール(世界遺産)を結ぶ鉄道のパリ=ストラスブール線や、マルヌ川とライン川を結ぶマルヌ=ライン運河が開通し、流通経路が改善された。19世紀中にシャンパンの生産量は10倍に急増し、高級ワインとして主に海外に輸出された。

19世紀後半にはヨーロッパの他の地域と同様、フィロキセラ(ブドウネアブラムシ)が大流行してほとんどのブドウが枯死した。この困難に際し、1898年に23のメゾンを中心にAVC(シャンパーニュ地方ワイン生産者協会)が創設され、アメリカのブドウ品種の台木に接ぎ木をする方法でブドウ園の再興が行われた。また、1900年にはエペルネーにブドウ栽培やワイン醸造の研究所としてフォール・シャブロルが建設され、接ぎ木の方法を伝え、また実施した。

19世紀後半からシャンパンの定義を定める動きが加速し、原産地統制呼称制度A.O.C.が導入されると1935年に認定を受けた。こうしてシャンパーニュ地方の指定地域で、特定の工程で生産されるスパークリング・ワインのみがシャンパンを名乗ることを認められた。なお、フランス語で一般的なスパークリング・ワインは微発泡のものからペティヤン、クレマン、ヴァン・ムスーなどと呼ばれている。

 

○資産の内容

構成資産として3地域の14件が登録されており、この中にあるブドウ園、収穫・圧搾・醸造・瓶詰め・保管・販売・流通施設、鉄道や運河など関連のインフラ、宗教施設や公共施設・居住施設を含む都市や村落、自然景観と一体化した文化的景観などが含まれている。

 

1.オーヴィリエとアイおよびマレイユ=シュール=アイの歴史的丘陵

 

○オーヴィリエの丘陵

マルヌ渓谷の丘陵地帯で、中腹の土壌はチョーク質ながら、上層は粘土と砂の層となっている。650年に丘の中腹にベネディクト会のサン=ピエール修道院が創設され、9世紀にローマ皇帝コンスタンティヌス1世の母で聖人として知られる聖ヘレナの聖遺物(イエスやマリア 、使徒や聖人の関連品)を所蔵したことで巡礼地となった。ここで生産された修道院ワインは非常に評価が高く、17世紀後半にはピエール・ペリニヨンが活躍し、シャンパン発祥の地となった。ペリニヨンは死後、修道院教会であるサン=シンドルフ教会に葬られた。1935年にメゾンのモエ・エ・シャンドンが主にオーヴィリエのブドウを使用したシャンパンに「ドン・ペリニヨン」の名を冠して売り出すと、瞬く間に世界的な名声を勝ち取った。現在、同社は修道院や同地のブドウ園を保有し、作柄がすぐれた年にのみドン・ペリニヨンの仕込みを行い、8年以上といった長期熟成を行って生産している。

 

○オーヴィリエの共同カーヴ群-地下

オーヴィリエの町の地下に築かれたシャンパンを二次発酵させるための共同地下貯蔵施設。オーヴィリエの町の地下には地下水や砂の層があるためカーヴを造ることができなかったが、19世紀末になってチョーク層に長い回廊状のカーヴが掘られ、切石やレンガのヴォールト(筒を半分に割ったような形の連続アーチ)天井で補強された。

 

○トマのカーヴ-地下

先述のようにオーヴィリエの町にはカーヴが築けなかったが、サン=ピエール修道院とペリニヨンは1673年にオーヴィリエから南西のキュミエールへ続く小道に沿ってトマのカーヴと呼ばれる地下貯蔵施設を建設した。シャンパンを瓶内二次発酵させるためのカーヴとしては最古とされる。

 

○アイの丘陵

アイの丘陵地帯はマルヌ渓谷でもっとも開けた場所で、「グラン・ヴァレ」と呼ばれている。中世からの赤ワインの生産地で、戴冠式で使用されるなどフランス王御用達となっていた。北に森林、南にマルヌ川と運河が走っており、町は運河沿いに広がっている。その間は一面のブドウ園で、約90%でピノ・ノワールが栽培されている。町とブドウ園を分けているのがノール通りやジュール・ロベ通りで、周辺にはアヤラ、ドゥーツ、ボランジェやCOGEVI(コジェヴィ=シャンパーニュ域内生産者協同組合)のトップ・ブランドであるコレなどのメゾンが点在している。

 

○アイのカーヴ-地下

アイの土壌は比較的堅牢で、多くの家屋が伝統的なカーヴを備えていた。特にノール通りやジュール・ロベ通りの周辺にはメゾンが所有する数々のカーヴが築かれた。

 

○マレイユ=シュール=アイの丘陵

シャンパーニュ平原の西、マルヌ渓谷の東に位置する丘陵地帯で、アイのように南に運河とマルヌ川が走り、その北に町とブドウ園が広がっている。アイほどの歴史と大きさはないが、平原を見下ろす眺めはよく、日当たりのよい環境でブドウが栽培されている。1770年代にシャトー・ド・モンテベッロ(シャトー・ド・マレイユ)と呼ばれる新古典主義様式(ギリシア・ローマのスタイルを復興したグリーク・リバイバル様式やローマン・リバイバル様式)の領主館が建設され、シャンパンの生産を目的としたカーヴなどの施設群も併設された。町やブドウ園もこの頃から発展した。一帯にはフィリポナ、ビルカール=サルモン、プイヨン・エ・フィス、ギィ・シャルボーなどのメゾンがある。

 

○マレイユ=シュール=アイのカーヴ-地下

マレイユ=シュール=アイの地下にはシャトー・ド・モンテベッロのカーヴがあり、チョークの岩盤を掘り抜いた空間が広がっている。また、フィリポナやビルカール=サルモンといったメゾンが独自のカーヴを掘り抜いている。

 

2.ランスのサン=ニケーズの丘

 

○サン=ニケーズの丘

ランスには3世紀にキリスト教が伝わったとされ、5世紀にランス司教ニケーズ(サン=ニケーズ)がランスのノートル=ダム大聖堂を創建した。8世紀に大司教区に昇格し、郊外に王立のサン=レミ大修道院(世界遺産)が建設された。サン=ニケーズの丘はこの大修道院の近くに位置している(ただ、本遺産と世界遺産「ランスのノートル=ダム大聖堂、サン=レミ旧大修道院及びトー宮殿」は重なってはいない)。13世紀にはベネディクト会のサン=ニケーズ修道院が創設され、修道院教会としてサン=ニケーズ教会が建設された(18世紀末に廃院・解体)。当初はランスの中心部でブドウ栽培が行われていたが、シャンパンの生産が盛んになった19世紀にサン=ニケーズの丘の周辺もブドウ園として開拓された。広い土地があったためブドウやワインの関連施設だけでなく、広大な敷地を持つシャンパーニュ公園や緑豊かなガーデン・シティ=シュマン・ヴェールなどが造営され、閑静な街並みが整備された。特筆すべき建物のひとつがシュマン・ヴェールにあるサン=ニケーズ教会だ。建築家ジャック・マルセル・オービュルタンの設計で1923~24年に再建されたビザンツ・リバイバル様式の教会堂で、特に装飾で名高く、ガラス工芸家ルネ・ラリックのステンド・グラスや、画家モーリス・ドニやエルネスト・ローランの壁画や絵画、エマ・ティオリエやロジェ・ド・ヴィリエの彫刻等々といった芸術家の作品で飾られている。一帯にはポメリー、ルイナール、ヴーヴ・クリコ、シャルル・エドシック、テタンジェ、マーテルといったメゾンやそのカーヴが点在しており、ポメリーの経営者によって建設されたシャトー・デ・クレイエールやヴィッラ・ドゥモワゼルといった豪邸も少なくない。

 

○ポメリー、ルイナール、ヴーヴ・クリコ、シャルル・エドシックのカーヴ群-地下

シャンパーニュ地方のチョークは建材としても使用されており、サン=ニケーズの丘は中世以来の採石場だった。地下にアリの巣のようなネットワークを有しており、近代に入ってワインの生産・貯蔵に使用されるようになった。本資産にはポメリー、ルイナール、ヴーヴ・クリコ、シャルル・エドシックのカーヴ群が含まれている。

 

○テタンジェのカーヴ-地下

もともとは18世紀末に廃院となったサン=ニケーズ修道院の土地で、1960年にメゾンであるテタンジェが、中世の採石場で後に修道院の施設となった地下室をカーヴとして整備した。

 

○マーテルのカーヴ-地下

地区最古級といわれる深さ22mを誇る採石場跡で、その上に築かれた18世紀の建物に、1869年に創業したマーテルが本社を置いていた。現在は博物館となっており、地下はカーヴとしてありつづけている。

 

3.エペルネーのシャンパーニュ通り

 

○シャンパーニュ通り

エペルネーのシャンパーニュ通りはフランスとドイツを結ぶ古くからの街道の一部で、主要な通商路であり、戦時には軍がこの道に沿って侵略を進める戦争の道でもあった。もともと商人が商店や住居を構えていたエリアで、18世紀以降は周辺に鉄道や運河が整備されたこともあって、メゾンやシャンパンを扱う商人が関連施設や豪邸を築いた。このため通りの周囲には美しい庭園を備えた華麗な建物が立ち並んでいる。メゾンとしてはモエ・エ・シャンドン、ペリエ=ジュエ、ドゥ・ヴノージュ、メルシエなどが本社を置いている。特徴的な建物として、まずオテル・ド・ヴィル・デペルネー(メリー・デペルネー。エペルネー郡庁舎)が挙げられる。1858年頃にオーバン=モエ家の邸宅として築かれた建物で、1919年に市に委譲された。ステンドグラスをはじめとする華麗な内装や美しいイギリス式庭園(自然を模したイギリスの風景式庭園)で知られる。オテル・モエはモエ・エ・シャンドンの創設者クロード・モエの孫に当たるジャン・レミ・モエが1793年に築いた新古典主義様式の邸宅で、広大なカーヴで知られる。その向かいに立つオテル・トリアノン・エ・シャンドンはジャン・レミ・モエが1805年に購入したオランジェリー(オレンジなどの果樹を栽培するための果樹園)と庭園を中心とした施設で、貴賓をもてなすための迎賓館として整備された。フランス皇帝ナポレオン1世や皇妃ジョゼフィーヌが滞在したことでも知られる。シャトー・ペリエはペリエ=ジュエの創設者であるピエール・ニコラ・ペリエとその妻ローズ・アデレード・ジュエの子で政治家として知られるシャルル・ニコラ・ペリエが1852~57年に建設したペリエ=ジュエ家の邸宅だ。バロック的な要素が強い歴史主義様式(中世以降のスタイルを復興したゴシック・リバイバル様式やネオ・ルネサンス様式、ネオ・バロック様式等)の本館を中心に50を超える別棟があり、広大なカーヴや各種温室を備えた庭園を有している。他にもシャトー・ド・ペキャンやオテル・ガリスなどの邸宅がある。

 

○フォール・シャブロル

19世紀後半にフィロキセラの被害が確認されると、モエ・エ・シャンドンのラウル・シャンドン・ド・ブリアイユは1895~1900年にその対策を研究するためにブドウ栽培の実践学校や見習い施設、接ぎ木ステーション、醸造研究所などを兼ねた研究所を設立し、その拠点として建築家アンリ・ピカールの設計でフォール・シャブロルを建設した。19世紀末から20世紀はじめにかけてブドウの接ぎ木を行い、あるいは多くのメゾンの技術者に接ぎ木の方法を教え、シャンパーニュ地方のブドウ栽培の再興に大きく寄与した。

 

○シャンパーニュ通りのカーヴ群-地下

シャンパーニュ通りとその周辺には回廊状の長い通路で結ばれた広大な地下空間が広がっている。18世紀末から19世紀にかけてチャート質の柔らかい土壌を掘り抜いて築いたもので、地下を通って運河や鉄道にもアクセスできた。シャンパーニュ通りの多くのメゾンがいまなおカーヴとして使用している。 

■構成資産

○オーヴィリエの丘陵

○オーヴィリエの共同カーヴ群-地下

○トマのカーヴ-地下

○アイの丘陵

○アイのカーヴ-地下

○マレイユ=シュール=アイの丘陵

○マレイユ=シュール=アイのカーヴ-地下

○サン=ニケーズの丘

○ポメリー、ルイナール、ヴーヴ・クリコ、シャルル・エドシックのカーヴ群-地下

○テタンジェのカーヴ-地下

○マーテルのカーヴ-地下

○シャンパーニュ通り

○フォール・シャブロル

○シャンパーニュ通りのカーヴ群-地下

■顕著な普遍的価値

○登録基準(iii)=文化・文明の稀有な証拠

本遺産は、幾世紀にわたって完成された専門技術、模範的な専門職連携組織、原産地統制呼称制度による保護、そして長期にわたる異文化交流や社会変革の発展の成果であり、これらには女性参加も実現した。シャンパーニュ地方の人々は伝統的なノウハウを発達させることで、ブドウ園の開拓(厳しい気候や豊かとはいえないチョーク質の土壌への対応)やワイン生産、スパークリング・ワインの技術習得、収穫や瓶詰めなど、多くの工程における困難を克服した。また、シャンパーニュの企業はイギリスとドイツから技術的な支援や起業家による投資を受けることができた。そしてブドウ栽培家やワイン醸造者とシャンパーニュ・メゾンの対等な関係は先駆的な専門的連携構造を発展させることにつながり、いまなお生きつづけている。

○登録基準(iv)=人類史的に重要な建造物や景観

何世紀もかけて完成されたブドウ栽培およびワイン醸造の実践に関する遺産で、シャンパーニュ地方におけるワイン生産は供給地(ブドウ園)、加工地(ブドウの収穫・圧搾地やカーヴ)、販売・流通センター(メゾン本社)で成立している。これらは機能的に絡み合い、ブドウが育つチョーク質の土壌と本質的に結び付いており、同地の建築にも影響が見られる。瓶内二次発酵を基本とするシャンパーニュ地方特有の生産工程は膨大なカーヴを必要とした。ランスのガロ・ローマ時代や中世のチョークの採石場を利用したり、エペルネーなどの丘陵地にカーヴを掘ったりすることで、シャンパーニュの隠れた側面ともいえる類を見ない地下景観が形成された。18世紀以降、シャンパンは世界中に輸出されるようになり、貿易の振興を受けて生産・販売拠点の周囲にブドウ園と輸送ルートにリンクした新しい街区が建設されるなど、機能性と営業の目的を統合した特徴的な都市設計が実現した。

○登録基準(vi)=価値ある出来事や伝統関連の遺産

本遺産、特に採石場を利用した記念碑的なカーヴと初期のシャンパーニュ・メゾンのあるサン=ニケーズの丘、商家の展示スペースのあるシャンパーニュ通りは、フランスの生活スタイル・祭祀・祝賀・融和・勝利(特にスポーツにおいて)の象徴としてのシャンパンの独創的かつ世界的な名声を勝ち取ったイメージを際立った方法で伝えている。文学・絵画・カリカチュア(風刺画)・ポスター・音楽・映画・写真・漫画までもがこの独創的なワインのイメージの影響力と恒久性を証言している。

■完全性

資産は共生的な機能的・領域的機構を通じてシャンパンの誕生・生産・普及を証言するもっとも代表的で最高に保存状態のよい要素を含んでいる。戦争やフィロキセラ、ワイン生産者の暴動といった危機もあったが、資産全域がこれらから回復している。地形とブドウ園の価値の高さによって区分けされた丘陵の村々は本来の範囲でよく保全されている。景観や区画はほとんど変化しておらず、建築遺産も良好な状態で伝えられている。第1次世界大戦中に砲撃を受けたものの、サン=ニケーズの丘は修復され、その機能は維持されている。チョークの採石場は現在もシャンパンの生産に使用されており、よく保全されたカーヴのネットワークもいまだ完全に機能している。

資産の視覚的完全性を長期的に保護するために、大規模なエネルギー設備のモニタリングが必要である。また、生物多様性の回復プログラムが機能的完全性を改善する可能性があり、シャンパーニュ地方の特長に対する貢献も期待されている。

■真正性

シャンパーニュの歴史と発展、そして視覚的品質の小規模な変化について、保管された膨大な文字・図像資料が証言している。ヨーロッパ全域がそうであったように、フィロキセラによってブドウが壊滅的な被害を受けたため、接ぎ木をしていない大部分のブドウに代わり、接ぎ木をして棚を付けたブドウを格子状に植え直した。視覚的な変化はそれほど大きくはないが、ワイン栽培の歴史における重大危機を物語っている。オーヴィリエ、アイ、マレイユ=シュール=アイの丘陵は少なくとも4世紀にわたってワインを輸出しつづけており、シャンパーニュ地方でもっとも古い形態の対外貿易に基づくブドウ栽培のモノカルチャー(一種類の作物のみを栽培する単作)を証言している。シャンパーニュのメゾンはオリジナルの内装や家具を含む建築遺産の保護を大々的に進めており、現在もシャンパーニュの企業活動に利用されている。

■関連サイト

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