ムスカウアー公園/ムジャコフスキ公園

Muskauer Park / Park Mużakowski

  • ドイツ/ポーランド
  • 登録年:2004年
  • 登録基準:文化遺産(i)(iv)
  • 資産面積:348ha
  • バッファー・ゾーン:1,204.65ha
世界遺産「ムスカウアー公園/ムジャコフスキ公園」、シュロス池とノイエス宮殿
世界遺産「ムスカウアー公園/ムジャコフスキ公園」、シュロス池とノイエス宮殿
世界遺産「ムスカウアー公園/ムジャコフスキ公園」、ノイエス宮殿の西ファサード
世界遺産「ムスカウアー公園/ムジャコフスキ公園」、ノイエス宮殿の西ファサード
世界遺産「ムスカウアー公園/ムジャコフスキ公園」、アルテス宮殿
世界遺産「ムスカウアー公園/ムジャコフスキ公園」、アルテス宮殿 (C) J.H.Janßen

■世界遺産概要

ナイセ川を挟んでドイツのバート・ムスカウとポーランドのウェンクニツァというふたつの町にまたがる公園で、ドイツ語でムスカウアー公園(正式名称:フュルスト・ピュックラー公園・バート・ムスカウ)、ポーランド語でムジャコフスキ公園と呼ばれている。貴族で造園家でもあったヘルマン・フォン・ピュックラー=ムスカウが1815~44年に造営したイギリス式庭園で、アルテス宮殿(旧宮殿)とノイエス宮殿(新宮殿)というふたつの城館を備えている。資産はドイツ側136.1ha、ポーランド側211.9haで、計348.0haとなっている。

○資産の歴史

ピュックラーは1785年にドイツ伯爵家の長男として地元ムスカウ城で誕生し、1811年に父親が亡くなると宮殿や周辺の公園を相続した。翌年イギリス旅行に出掛けたピュックラーはイギリス式庭園に衝撃を受け、庭園芸術を学んだ。イギリス式庭園は、ブレナム宮殿(世界遺産)の造園などで知られる第一人者のランスロット・ブラウンやその弟子ハンフリー・レプトンらによって確立された風景式庭園で、平面幾何学式庭園に代表されるシンメトリーや直線を嫌い、非対称・不均衡・曲線で構成された自然に近い造形を特徴としている。造園家は単に庭園を設計するだけでなく、川や池・湖・湿地・森といった自然の要素と建物や庭園・牧草地・農場といった人工的な要素が一体化したランドスケープ・アート(造園芸術/景観芸術)を総合的にデザインするランドスケープ・アーキテクト(景観設計家)となっていた。

帰国後、ピュックラーは周辺住民から必要な土地を買い取り、造園家ヤコブ・ハインリヒ・レーダーとともに広大なイギリス式の公園の造園を開始した。1819年までに要塞や堀を取り壊し、ナイセ川から水路を引いてシュロス池を造営。次の5年間で新旧ふたつの宮殿(城館)を改装し、醸造所をガラス張りのオランジェリー(オレンジなどの果樹を栽培するための温室)に換え、イギリス橋と二重橋を建設した。次の段階でゴシック・リバイバル様式の礼拝堂やイギリス風のコテージであるイギリス館、スパ施設を築き、1840年までに完成した。また、南西の丘に広がるベルク公園には農場や森林を造営し、景観を整備した。ピュックラーは道の周囲やエリアの境界に樹木を植え、線で絵を描くように木々で風景を描き上げ、所々に林や森を造営して背景とした。こうした樹木の使い方はきわめて特徴的だが、土壌の関係で当初は木々を植えることができなかったという。そのため牛車を使って大量の土を運び込み、土作りからはじめなければならなかった。

ピュックラーは公園を造営するだけでなく造園学校を開設し、1834年に著した『風景式庭園のためのヒント集 "Andeutungen uber Landschaftsgartnerei"』はランドスケープ・アートの教科書となった。エドゥアルト・ペツォルトをはじめとする弟子たちはヨーロッパで広く活躍し、北アメリカなどに学校を設立するなどランドスケープ・アートの普及に大きく貢献した。

しかし、財政的な問題でピュックラーは1845年に一帯の土地をオランダの名門オラニエ=ナッサウ家のヴィルヘルム・フリードリヒ・カール・フォン・オラニエ=ナッサウに売却した。ピュックラーの弟子であるペツォルトが造園を引き継ぎ、公園に町を取り込むというピュックラーの構想を推し進めて小道や橋・果樹園などを築き、ベルク公園を拡張した。また、1863~66年には新旧の宮殿やカヴァリエ・ハウス(騎士の家)が改修・再建された。1878年にペツォルトは辞任し、1883年に公園はトラウゴット・ヘルマン・カウント・フォン・アーミン=ムスカウに売却された。この後もピュックラーのプランが進められ、ピュックラーの記念碑などが建設された。1931年には自然保護区に指定されている。

第2次世界大戦中の1945年、ドイツ軍とソ連軍が対峙したベルリン戦線の最前線となり、バート・ムスカウでは約70%の建物が破壊された。ムスカウアー公園でもアルテス宮殿やノイエス宮殿、イギリス館、霊廟などが破壊され、すべての橋が落とされた。戦後、ナイセ川は東ドイツとポーランドの国境となり、公園は東西に二分された。東ドイツ側は市の公園となり、ポーランド側は国に接収されたが、両国で公園と建造物の保護が進められ、それぞれムスカウアー公園/ムジャコフスキ公園として保全された。アルテス宮殿は東ドイツ時代の1965~72年に再建されている。1988年に総合芸術作品として公園を両国共同で修復・管理する契約を締結し、1993年に設立されたフュルスト・ピュックラー公園・バート・ムスカウ財団が中心となって修復・再建を進めた。1990年に東西ドイツが統一され、1992年にムスカウアー公園はザクセン州の所有に移行した。1999~2014年にノイエス宮殿、2003年に二重橋、2010~11年にはイギリス橋が再建され、周囲の森や湖も整備されて往時の姿を取り戻した。

○資産の内容

世界遺産の資産は両国にまたがっており、ドイツ側のシュロス公園、ベルク公園、バード公園、ポーランド側のナイセ川東岸の4エリアで構成されている。

シュロス公園はムスカウアー公園/ムジャコフスキ公園の核といえるエリアで、宮殿を中心に数多くの建造物が点在している。アルテス宮殿は19世紀はじめにバロック様式で建設された旧宮殿で、第2次世界大戦で破壊されて1972年に再建された。シンプルな長方形の平面プランを持つ2階建てで、現在は博物館や観光案内所が入っている。ネオ・ルネサンス様式のノイエス宮殿はもともと巨匠カール・フリードリヒ・シンケルが計画した新宮殿で、建築家マクシミリアン・フランツ・シュトラッサーとヘルマン・ヴェンツェルが設計して19世紀半ばに建設された。2~4階建ての「コ」形のコートハウス(中庭を持つ建物)で、西ファサードの両脇にふたつの円柱形の塔を持つ。こちらも2014年の再建で、現在は博物館や展望台として公開されている。カヴァリエ・ハウスは19世紀にネオ・ルネサンス様式で建設された宮殿で、オラニエ=ナッサウ家のフリードリヒの時代にはゲストハウスとして使用されていた。大戦で被害を受けなかった数少ない建物のひとつで、オリジナルの宮殿建築が伝えられている。オランジェリーはプロイセンの建築家ルートヴィヒ・ペルジウスが設計した温室で、1844年に建設された。ゴシック・リバイバル様式にイスラム建築のムーア様式の影響を受けた平屋で、熱帯・温帯の植物を育てるだけでなく、冬季に園内の植物を保護する場所でもあった。厩舎は園芸小屋を兼ねた建物で、ノルマン・ゴシック様式とネオ・ルネサンス様式の折衷となっている。宮殿の周囲はフラワー・ガーデンで、シュロス庭園、ヘレン庭園、ブラウエン庭園という庭園群が散在している。広々とした草地が広がっており、シュロス池やアイヒ湖・水路といった水場とともに美しい景観を奏でている。

ベルク公園はシュロス公園の南西、バート・ムスカウの町を越えた場所に展開し、ふたつの公園で町を挟むような形を取っている。町を見下ろす丘に位置し、見下ろした際の景観と、シュロス公園からの景観の両面を意識してデザインされている。最終氷期(約7万~1万年前)に形成された峡谷などの自然環境を活かしつつ、深い森が広がっている。

バード公園はベルク公園の西に隣接する一帯で、第2次世界大戦以前はスパとして使用されていた。ヴィラ・シェーンブリックなどの入浴・宿泊施設や森林鉄道・劇場といったスパの施設・設備が残されており、鉱泉のミネラル・ウオーターが園内を流れている。

ナイセ川東岸はイギリス橋や二重橋の東、ポーランド領に広がるエリアだ。資産の約61%を占めるが、もともと樹木のコレクションを植林したエリアで建造物は少ない。テラセン公園、オーバー公園、ペッツォルド樹木園の3パートからなり、東端はブロノビツェの町まで伸びている。深い森を中心に牧草地や池が点在しており、牧歌的な風景が広がっている。かつてはイギリス館や霊廟があったが、第2次世界大戦で破壊された。

■構成資産

○ムスカウアー公園

○ムジャコフスキ公園

■顕著な普遍的価値

○登録基準(i)=人類の創造的傑作

ムスカウアー公園/ムジャコフスキ公園は理想的な景観を目指して新境地を切り拓いたヨーロッパの風景式庭園の卓越した作品である。

○登録基準(iv)=人類史的に重要な建造物や景観

ムスカウアー公園/ムジャコフスキ公園は都市の景観設計に新しいアプローチをもたらした先駆者であり、景観建築の発展に多大な影響を及ぼした。

■完全性

資産はピュックラーが考案し、ペツォルトに引き継がれたオリジナルのコンセプトの中でもっとも重要な特徴をすべて含んでおり、広大な景観の中核となるエリアを網羅している。資産外の公園部分についてもバッファー・ゾーンに指定されている。ドイツ側はシュロス公園、ベルク公園、バード公園、ポーランド側はテラセン公園、オーバー公園、ペッツォルド樹木園からなるが、国境によって分割されても共同管理によって全体的な構成は保たれており、資産の完全性は保持されている。残念ながら第2次世界大戦ではナイセ川に架かる橋々や新旧両宮殿などが破壊され、多くの建造物が無傷ではいられなかった。

■真正性

公園の基本的なレイアウトは19世紀前半に誕生して以来、大きな変化はなく、道や水場の位置・地形といった空間構成はそのまま維持されている。何度か手が加えられ、現在は私有地ではなくなったものの、歴代の所有者や造園家はピュックラーの独創的なビジョンとデザインを守りつづけており、その才能の成果は維持され、いまなお高く評価されている。

保全のアプローチとして、19世紀の公園の変遷を尊重し、ピュックラーが生前に描き、死後引き継がれたデザインを維持する形で進められており、公園の形状や空間的な関係性・樹木・小道・水路・建造物の状態などに適用されている。

第2次世界大戦中に受けた損傷に対する修復は全体的なプランと構築された要素間の関係に重点が置かれている。こうした作業は詳細な文書や元の図面、その他の記録、綿密な調査に基づいて行われている。近年のふたつの橋の修復により、川を挟んだ資産の両岸の関係が再構築された。また、ノイエス宮殿はピュックラーによって造営された公園レイアウトの中心的かつ支配的な存在であり、その外観の修復完了によって資産の真正性が強化された。

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