ネスヴィジにあるラジヴィウ家の建築・住居・文化複合体

Architectural, Residential and Cultural Complex of the Radziwill Family at Nesvizh

  • ベラルーシ
  • 登録年:2005年
  • 登録基準:文化遺産(ii)(iv)(vi)
  • 資産面積:120ha
  • バッファー・ゾーン:292ha
世界遺産「ネスヴィジにあるラジヴィウ家の建築・住居・文化複合体」、左のドームがキリスト聖体教会、右の建物がネスヴィジ城
世界遺産「ネスヴィジにあるラジヴィウ家の建築・住居・文化複合体」、左のドームがキリスト聖体教会、右の建物がネスヴィジ城 (C) Ludvig14
世界遺産「ネスヴィジにあるラジヴィウ家の建築・住居・文化複合体」、ネスヴィジ城。右の塔はレジデンスの時計塔、左の塔は門塔、中央は稜堡
世界遺産「ネスヴィジにあるラジヴィウ家の建築・住居・文化複合体」、ネスヴィジ城。右の塔はレジデンスの時計塔、左の塔は門塔、中央は稜堡 (C) Ludvig14
世界遺産「ネスヴィジにあるラジヴィウ家の建築・住居・文化複合体」、ネスヴィジ城の中庭。中央の建物が宮殿、その左右がギャラリー、右の建物がレジデンス、左の建物がアーセナル
世界遺産「ネスヴィジにあるラジヴィウ家の建築・住居・文化複合体」、ネスヴィジ城の中庭。中央の建物が宮殿、その左右がギャラリー、右の建物がレジデンス、左の建物がアーセナル (C) insider51
世界遺産「ネスヴィジにあるラジヴィウ家の建築・住居・文化複合体」、右はキリスト聖体教会、左は城塔
世界遺産「ネスヴィジにあるラジヴィウ家の建築・住居・文化複合体」、右はキリスト聖体教会、左は城塔 (C) Horakvlado
世界遺産「ネスヴィジにあるラジヴィウ家の建築・住居・文化複合体」、キリスト聖体教会のクリプトに収められたラジヴィウ家代々の棺
世界遺産「ネスヴィジにあるラジヴィウ家の建築・住居・文化複合体」、キリスト聖体教会のクリプトに収められたラジヴィウ家代々の棺 (C) Andrei Kuzmin

■世界遺産概要

ベラルーシ中西部のミンスク州ネスヴィジに位置する世界遺産で、リトアニア大公国やポーランド=リトアニア連合王国・共和国の大貴族として知られるラジヴィウ家の居城・ネスヴィジ城を中心に、周辺のイギリス式庭園(自然を模したイギリスの風景式庭園)やラジヴィウ家の代々の墓でもあったキリスト聖体教会などが地域で登録されている。

○資産の歴史

ラジヴィウ家はもともとリトアニア大公国のアスティカイ家から分かれたベラルーシの貴族と見られ、14世紀頃からリトアニアのヴィリニュス(世界遺産)やポーランドのクラクフ(世界遺産)、その周辺で多くの知事や司教・大司教らを輩出して名家へと躍進した。

ネスヴィジは1223年にはじめて記録に登場し、1492年にリトアニア大公アレクサンデルからピオトル・ヤン・モンティゲルドヴィッチに下賜された。ピオトルの死後、娘ゾフィアが相続し、ゾフィアがスタニスワフ・キシュカと結婚したことでキシュカ家に移った。さらに、スタニスワフとゾフィアの娘アンナが1513年にヤン・ラジヴィウに嫁いだことでラジヴィウ家の所領となった。ふたりの息子であるミコワイ・ラジヴィウ・チャルヌィはリトアニア大公国において大公に次ぐ権力を持つヘトマン(総司令官)にまで上り詰めた。ミコワイ・ラジヴィウは現在ネスヴィジ城のある場所に立っていた宮殿に居住していたという。

なお、リトアニア大公国は1385年のクレヴォ合同でポーランド王国と同君連合を成立させており(ポーランド=リトアニア連合王国)、1569年にはルブリン合同によって選挙で勝った同じ君主を掲げる共和国(ポーランド=リトアニア共和国)となっている。

ミコワイ・ラジヴィウの息子であるミコワイ・クシシュトフ・ラジヴィウ・シェロトカはラジヴィウ家にふさわしい城を目指して1582~1604年にネスヴィジ城を建設した。中心にルネサンス様式の3階建ての宮殿を置き、周辺に武器庫と望楼を備えたアーセナル(カメニツァ)や居住施設であるレジデンス、兵舎・倉庫・鋳造所・パン工房・門塔等を設け、堀に囲まれた最新式の要塞として整備した。また、周囲に人工の池や運河を建設し、イタリア式庭園(イタリア・ルネサンス庭園)を造営した。ミコワイ・クシシュトフは30kmほど北に位置するミール城(世界遺産)も宮殿として改修していたが、ネスヴィジ城が完成するとこちらを本城として使用した。

ミコワイ・クシシュトフはもともとカルヴァン派プロテスタントだったが、ローマ・カトリックに改宗したことを切っ掛けに、城の対岸にたたずむカルヴァン派の木造教会堂を解体し、ローマ・カトリックの石造教会堂として再建することを決定した。これがキリスト聖体教会で、イタリア人建築家ジョヴァンニ・マリア・ベルナルドーニの設計で1587~93年にバロック様式で建て替えられ、イエズス会の教会堂として使用された。息子アレクサンデル・ルドヴィク・ラジヴィウの時代の1650年には城のアーセナルにギャラリー(回廊)が増築された。

1660年にロシア・ツァーリ国の侵攻を受けたが、これを撃退した。しかし、大北方戦争(1700~21年)では1706年にスウェーデン王カール12世の攻撃を受けると城門を開いて降伏し、町は破壊・略奪を受けた。

時の当主ミハウ・カジミェシュ・ラジヴィウ・ルィベンコは1732~58年にかけて城の修復・改築を行い、市庁舎をはじめとする町の再建も進めた。この時代には城としての防御機能は重視されず、宮殿の文化施設としてコレクションを収蔵する美術館や博物館、劇場や図書館などが整備され、全体がギャラリーで囲われた。また、城の外ではフランス式庭園(フランス・バロック庭園)を造営し、景観の向上を図った。この時代にドイツ、イタリア、ポーランド、ベラルーシなどから多くの建築家や芸術家・音楽家が招聘され、あるいは集結し、バロック様式を中心とした華やかな文化が花開いた。1784年には最後のポーランド=リトアニア王スタニスワフ2世アウグスト(スタニスワフ・アウグスト・ポニャトフスキ)を迎えるため宮殿に王のホールが増設されている。

ポーランド=リトアニアはオーストリア、プロイセン、ロシアによる1772年・1793年・1795年の3度のポーランド分割によって解体され、ネスヴィジはロシア帝国領に組み込まれた。ラジヴィウ家はナポレオン戦争(1803~15年)でフランス側に立ってこれらの国々と戦った。この混乱の中で城はしばらく放棄されていたが、19世紀後半にアントニ・ヴィルヘルム・ラジヴィウと妻のマリー・ド・カステラーヌが入城すると活気を取り戻した。ふたりは宮殿の内装を一新し、ゴシック・リバイバル様式の改修を加えた。また、庭園を大幅に改装し、城の周囲をイギリス式庭園で囲った。

第1次世界大戦(1914~18年)では大きな被害を受けなかったが、第2次世界大戦(1939~45年)では1939年にソ連に接収され、ラジヴィウ家の手を離れた。この時代にラジヴィウ家のコレクションの多くが持ち去られ、大部分は失われた。ナチス=ドイツの占領下では軍病院として使用され、1945~2001年まで長期的な療養を行うサナトリウムとしてありつづけた。

1991年にソ連からベラルーシが独立すると、1993年には博物館や文化センターとして整備され、城の修復が進められて現在の姿となった。

○資産の内容

世界遺産の資産として、ネスヴィジ城とウシャ川から水を引いた人工池や運河、5つの公園、キリスト聖体教会などが地域で登録されている。

城は長方形の堀に守られており、内側の敷地を堡塁が取り囲み、四角からは稜堡(城壁や要塞から突き出した堡塁)が突き出している。城は六角形に四角形を組み合わせたようなコートハウス(中庭を持つ建物)で、中庭の周囲を10棟の建物が取り巻いており、全体でひとつの建築物のような構造となっている。中心となる建物は東の宮殿、西の門塔とフロント・ウイング、南のレジデンス、北のアーセナルで、その間を回廊であるギャラリーが結んでいる。

城の核である宮殿はほぼ正方形の3階建てで、16世紀にルネサンス様式で建設された。ここに18世紀に拡張された2階建ての別館が接続されている。王のホールやボールルーム(ダンスなどを行うための大広間)・宝物庫といった部屋があり、華麗なインテリアやフレスコ画(生乾きの漆喰に顔料で描いた絵や模様)・絵画・彫刻などで飾られている。特に彫刻家アントニ・ザレスキによるバロック様式のスタッコ(化粧漆喰)や、階段に飾られた新古典主義様式(ギリシア・ローマのスタイルを復興したグリーク・リバイバル様式やローマン・リバイバル様式)の画家フランツィシェク・スムグレヴィッチによる絵画『オーロラ』が名高い。

宮殿の南は南ギャラリーによってレジデンスと、北は東ギャラリーによってアーセナルと結ばれている。ギャラリーはいずれも18世紀に増設されたもので、3階建ての1階はアーケード(屋根付きの柱廊)となっている。

レジデンスは16世紀に築かれたルネサンス様式の3階建ての建物で、東端にランドマークである時計塔を備えている。その名の通り居室や居間を備えた邸宅として建てられたものだ。

アーセナルは16世紀に平屋の武器庫として建設され、17世紀にギャラリーが取り付けられた。18世紀にこれらを増築して3階建てとし、礼拝堂などが設けられた。

レジデンスとアーセナルは2階建てのギャラリーによって西のフロント・ウイングと結ばれている。この辺りはゲストハウスとして使用されていた。

西の中央に立つのが16世紀に建設されたルネサンス様式の門塔で、八角形の塔がそびえている。この西に堀を渡る橋が架けられており、エントランスとなっている。

城の周囲には5つの公園があり、城と同じ岸にザムカヴィ公園(城公園)、ストレー公園(旧公園)、ヤポンスキー公園(日本公園)、対岸にアングリスキー公園(イギリス公園)、マリシン公園(新公園)が配されている。いずれも自然を模したイギリス式庭園で、公園群はほとんど一体化している。各所にミコワイ・クシシュトフ・ラジヴィウ・シェロトカ像やマリー・ド・カステラーヌ像といった関係者の彫像や、人魚像や天使像・犬像といった伝説を記念した彫像、オベリスク(古代エジプトで神殿の前に立てられた石碑)などが点在している。

城の南西の池には人工の堤が伸びており、キリスト聖体教会と結ばれている。

キリスト聖体教会は建築家ジョヴァンニ・マリア・ベルナルドーニの設計で1587~93年に建設されたバロック様式の教会堂だ。「†」形のラテン十字式・三廊式(身廊とふたつの側廊を持つ様式)で、十字のクロス部分にドームを掲げている。内部は16~19世紀の彫刻やフレスコ画・絵画で華やかに装飾されており、特にヴェネツィアの彫刻家ジローラモ・カンパーニャによる17世紀の彫刻や、ポーランドの画家クサヴェリ・ヘスキーによる19世紀のフレスコ画などが名高い。2010年の修復で漆喰に隠された18世紀のフレスコ画が発見され、その保存状態のよさと教会内部を覆う大きさで注目された。教会堂はラジヴィウ家の墓地でもあり、クリプト(地下聖堂)には16~20世紀にかけてのラジヴィウ家の72人の棺が収められている。

■構成資産

○ネスヴィジにあるラジヴィウ家の建築・住居・文化複合体

■顕著な普遍的価値

○登録基準(ii)=重要な文化交流の跡

本遺産は西洋の伝統の統合に基づく新しいコンセプトの導入の発祥地となり、中央ヨーロッパにおける新しい建築学派の確立を導いた。

○登録基準(iv)=人類史的に重要な建造物や景観

ラジヴィウ家の建造物群は新しい建築様式の発展において、また16世紀から17世紀にかけての中央ヨーロッパの建築史において、重要な段階を体現している。特にこれはドーム・バシリカ式教会堂であるキリスト聖体教会に該当するものである。

○登録基準(vi)=価値ある出来事や伝統関連の遺産

ラジヴィウ家は南・西ヨーロッパからの影響の解釈と、中央・東ヨーロッパ内における思想の伝達との関連において、特に重要であった。

■完全性

宮殿城塞、キリスト聖体教会およびクリプト、風景式の公園や池をはじめ、本遺産の顕著な普遍的価値を構成するすべての要素は120haの資産の範囲に含まれている。資産はその重要性を伝える特徴やプロセスを完全に表現するために十分な広さを有しており、292haに及ぶバッファ-・ゾーンも設定されている。いずれの要素の保全状況も良好である。

■真正性

位置や配置、形状やデザイン、素材や原料など、資産の総合的・歴史的な真正性は維持されており、城塞コンプレックスの範囲と周囲の自然景観はおおむね保存されている。16世紀から18世紀にかけてのネスヴィジの図面や地図から建造物群のデザインについて真正性が高いレベルで維持されていることが理解できる。城と教会堂・クリプトには16世紀から18世紀にさかのぼる建築資材・構造・工芸品が含まれている。城塞は17世紀に破壊されたが、最近になって鐘楼などいくつかの建物が再建された。主に19世紀に造営されたロマン派の特徴を持つ風景式の公園は長らく放置されており、ここ数十年になってようやくいくらかの整理と再植栽が実施された。全体として景観に不可欠な要素はすべて、特に城とキリスト聖体教会の隣接地においては十分に維持されている。

2006~10年にかけて城の東ギャラリーが解体・再建され、教会堂とクリプトには暖房設備の導入が計画されていたが、いずれも全体の保全計画には寄与していない。これらの工事や最近の再建および近代化補修について、また一般的に修復と再生のバランスについて、いくつかの懸念が表明されている。

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