オデーサ歴史地区

The Historic Centre of Odesa

  • ウクライナ
  • 登録年:2023年緊急登録、2023年危機遺産登録
  • 登録基準:文化遺産(ii)(iv)
  • 資産面積:237.5ha
  • バッファー・ゾーン:1068.5ha
世界遺産「オデーサ歴史地区」、ポチョムキン階段の頂部にあるリシュリュー公記念碑。中央はアルマン・エマニュエル・リシュリューの立像
世界遺産「オデーサ歴史地区」、ポチョムキン階段の頂部にあるリシュリュー公記念碑。中央はアルマン・エマニュエル・リシュリューの立像 (C) Alex Levitsky & Dmitry Shamatazhi
世界遺産「オデーサ歴史地区」、オデーサのランドマーク、ポチョムキン階段。上奥に立つのはリシュリュー公記念碑
世界遺産「オデーサ歴史地区」、オデーサのランドマーク、ポチョムキン階段。上奥に立つのはリシュリュー公記念碑 (C) Oleksandr Malyon
世界遺産「オデーサ歴史地区」、ネオ・バロックの装飾で覆われたオデーサの象徴、オデーサ国立アカデミック・オペラ・バレエ劇場
世界遺産「オデーサ歴史地区」、ネオ・バロックの装飾で覆われたオデーサの象徴、オデーサ国立アカデミック・オペラ・バレエ劇場 (C) Konstantin Brizhnichenko
世界遺産「オデーサ歴史地区」、トスカーナ式の列柱が美しいヴォロンツォフ宮殿、左奥はベルヴェデーレ
世界遺産「オデーサ歴史地区」、トスカーナ式の列柱が美しいヴォロンツォフ宮殿、左奥はベルヴェデーレ (C) Сарапулов
世界遺産「オデーサ歴史地区」、コリント式の柱や彫像・レリーフなどバロック・ロココの装飾が特徴的なアレクサンドル・ペトロヴィチ・ルソフ邸
世界遺産「オデーサ歴史地区」、コリント式の柱や彫像・レリーフなどバロック・ロココの装飾が特徴的なアレクサンドル・ペトロヴィチ・ルソフ邸 (C) Romankravchuk
世界遺産「オデーサ歴史地区」、角度によって一枚の壁のように見えるG.F.ラファロヴィチ・ビル、別名・一枚壁の家
世界遺産「オデーサ歴史地区」、角度によって一枚の壁のように見えるG.F.ラファロヴィチ・ビル、別名・一枚壁の家 (C) Posterrr
世界遺産「オデーサ歴史地区」、通称・パサージュと呼ばれるメンデレーヴィチ邸のギャラリー
世界遺産「オデーサ歴史地区」、通称・パサージュと呼ばれるメンデレーヴィチ邸のギャラリー (C) Konstantin Brizhnichenko
世界遺産「オデーサ歴史地区」、ギリシア神殿を彷彿させるオデーサ・シティホール。左は豊穣の女神ケレス像
世界遺産「オデーサ歴史地区」、ギリシア神殿を彷彿させるオデーサ・シティホール。左は豊穣の女神ケレス像 (C) Alex Levitsky & Dmitry Shamatazhi
世界遺産「オデーサ歴史地区」、コリント式のポルティコが印象的なオデーサ考古学博物館
世界遺産「オデーサ歴史地区」、コリント式のポルティコが印象的なオデーサ考古学博物館 (C) Posterrr

■世界遺産概要

ウクライナ南部の都市オデーサ(オデッサ)は黒海に面し、ドニエストル川河口に位置する港湾都市で、1794年にロシア皇帝エカチェリーナ2世によって建設された。1819年に自由貿易港に指定されるとヨーロッパとアジアを結ぶ架け橋となり、ヨーロッパ中の民族・文化が集まる多文化・多民族都市として発展した。地形を利用した方格設計(碁盤の目状の整然とした都市設計)の整然とした街並みに、新古典主義様式(ギリシア・ローマのスタイルを復興したグリーク・リバイバル様式やローマン・リバイバル様式)や歴史主義様式(ゴシック様式やルネサンス様式、バロック様式といった中世以降のスタイルを復興した様式)、折衷主義様式(特定の様式にこだわらず複数の歴史的様式を混在させた19~20世紀の様式)といったさまざまな時代・地方の影響を受けた多彩な建築・芸術文化が華開き、「黒海の真珠」と謳われる美しい街並みが誕生した。

なお、本遺産は通常1年半ほど掛かる登録プロセスを短縮した緊急的登録推薦が利用されており、2022年10月に推薦されると2023年1月に緊急登録が決定し、世界遺産リストと同時に危機遺産リストに登載された。詳細は「■危機遺産リスト登録理由」参照。

○資産の歴史

オデーサの地には旧石器時代から集落が存在し、ギリシア時代には小さな港町やギリシア人の植民都市があったようだ。ただ、ヨーロッパとアジアを結ぶ交通の要衝であったことから異民族の侵入も多く、遊牧民族(キンメリア人、スキタイ人、フン人、アヴァール人等)、ギリシア系(ギリシア人、マケドニア人等)、ラテン系(ローマ人、ルーマニア人等)、テュルク系(ブルガール人、タタール人、トルコ人等)、スラヴ系(東・西・南スラヴ人等)、ゲルマン系(ノルマン人等)をはじめ多くの民族がこの地を行き来した。14世紀にリトアニア大公国が占領して「カチベイ」と呼ばれる要塞を築き、まもなくオスマン帝国が版図に加えて「ハジベイ」という集落を建設したという。

オスマン帝国は黒海周辺の領有権を巡ってロシアの代々の国々、モスクワ大公国(1263~1547年)やロシア・ツァーリ国(1547~1721年)、ロシア帝国(1721~1917年)と戦争を繰り返し、カチベイはその前線基地となった。1766年にはリトアニア時代の要塞を改造して「イェニ・ドゥニャ」と呼ばれる要塞を建設した。

1787~91年のロシア=トルコ戦争(露土戦争)中の1789年、一帯はロシアに占領され、講和条約である1792年のヤシ条約でロシアに編入された。ロシアの悲願は大西洋に抜けることができ、冬に凍り付かない不凍港を手に入れること。黒海に港があれば地中海を抜けて大西洋に出ることができることから、ロシア皇帝エカチェリーナ2世はこの悲願を実現すべく、1794年から不凍港と港湾都市の建設に取り掛かった。この新しい都市は近郊の古代ギリシア植民都市オデソスから名を採ってオデーサと命名された。

設計を担当したオランダ人軍事技術者フランソワ=ポール・サント・ド・ヴォランはふたつの渓谷と平行で、海岸線に対して垂直に交わるラインを設定し、85~120m×32mほどの長方形のブロックを並べ、それぞれの内部を垂直に交わる道路で細分化した方格設計の都市プランを組み上げた。また、長方形グリッドの西に角度を47度変えた新たなグリッドを設計した。そして都市建設に必要な石材は地下から石灰岩を切り出して賄った。地下からの採石はこの後も続き、やがて全長2,500km・深さ60mという世界有数の地下ネットワークであるオデーサ・カタコンベが形成された。

1803年に皇帝アレクサンドル1世はオデーサ長官にフランスから亡命したアルマン・エマニュエル・リシュリューを指名し、1805年には黒海北岸に広がるノヴォロシアの総督とした。リシュリューは移住政策を推進して人口を倍増させ、新古典主義様式の街並みを演出するなどして都市開発を進めた。リシュリューは1814年にフランスに帰国したが、こうした功績を記念して1826年にリシュリュー公記念碑が設置され、リシュリュー像が立てられた。現在、ポチョムキン階段(プリモルスカ階段)の頂部に立つ記念碑がそれだ。

19世紀はじめ、オデーサ長官となったアレクサンドル=ルイ・アンドロー・ド・ランジュロンは急速な人口増加に対応するため1819年に建築家フランソワ・シャレムに依頼して都市の拡張計画を策定し、高原の縁まで大通りを走らせて街を広げた。同じ1819年にオデーサは自由貿易港に指定され、港も拡張された。

1823年にノヴォロシア総督となったミハイル・セミョーノヴィチ・ヴォロンツォフの時代に港湾都市としてさらに飛躍し、穀物や工業製品の輸出で大きな利益を上げた。1828年には黒海ではじめて蒸気船の航路が確立されている。また、ヴォロンツォフは公共・福祉事業に尽力し、ポチョムキン階段を整備し、博物館や美術館・救貧院・孤児院・盲聾院などを設立した。

この時代、オデーサにはヨーロッパのあらゆる民族が集結し、イタリスカ(イタリア)通りやポルスカ(ポーランド)通り、ジェヴェレジスカ(ユダヤ)通りなど、国名や民族名を冠した地名が数多く見られるようになった。1823~24年にかけてオデーサに滞在した作家アレクサンドル・プーシキンは「すべてのヨーロッパで満たされた都市」と評している。

こうした多彩な民族と文化の融合は自由貿易を含む自由主義によってもたらされた。オデーサでは入植者とその子孫には土地が与えられただけでなく、税金や徴兵が免除され、宗教の自由も保証された。この結果、1802年に8,000~9,000人ほどにすぎなかった人口は1825年までに32,000人を超え、さらに増加を続けた。19世紀中にオデーサはロシアにおいてサンクトペテルブルク(世界遺産)に次ぐ主要港となり、都市としてもサンクトペテルブルク、モスクワ(世界遺産)、ワルシャワ(世界遺産)に次ぐ第4の都市となった。

クリミア戦争(1853〜56年)でイギリス、フランス、サルデーニャ、オスマン帝国の同盟軍の砲撃を受けて被害を出したが、最終的にこれを退けた。1865年には鉄道が開通し、同年にオデーサ大学の前身であるノヴォロシア大学が創設された。19世紀後半に上下水道が整備されると、東ヨーロッパ随一の衛生設備を誇った。この時代には歴史主義様式や折衷主義様式の建物が数多く建設され、20世紀にはモダニズム建築が続いた。しかし、こうした繁栄は21世紀に入って終わりを告げる。

第1次ロシア革命(1905~07年)前、オデーサは革命運動のひとつの拠点となっていた。1905年に水兵による反乱が起こった戦艦ポチョムキン号がオデーサに入港し、労働者によるデモと合流した。また、19世紀にたびたびユダヤ人に対するポグロム(反ユダヤの差別的・組織的な暴力・破壊行為)が起きていたが、1905年にオデーサ史上最悪のポグロムが起き、多くのユダヤ人がこの都市を離れた。

第1次世界大戦(1914~18年)ではオスマン帝国が黒海と地中海をつなぐダーダネルス海峡とボスポラス海峡を封鎖したため、貿易で大打撃を受けた。そして1917年に二月革命と十月革命(両者を合わせて第2次ロシア革命)が起き、世界初の社会主義国家であるロシア・ソビエト連邦社会主義共和国が成立する一方で、ウクライナ人民共和国が独立してソビエト=ウクライナ戦争(1917~21年)が勃発し、オデーサでもオデッサ・ソビエト共和国が興るなど混乱した。1918年にオデーサは一時ドイツ軍やオーストリア軍からなる同盟軍の侵攻を受け、その後フランスやギリシアといった協商軍に占領された。1920年にロシア・ソビエトの赤軍が共和国軍や白軍を制圧し、オデーサを確保。1922年にロシア、ウクライナ、白ロシア(ベラルーシ)、ザカフカースという4つのソビエト共和国が連邦を形成してソビエト社会主義共和国連邦(ソ連)が成立した。

第2次ロシア革命期の混乱でオデーサは1/4の建物が破壊され、人口が半減したといわれるほどの打撃を受けた。さらに、すべてを国有化して文化や民族の多様性を否定するソ連の方針によって市民の流出は止まらなかった。ただ、戦間期に多くの学校や劇場・映画館・美術館・博物館が整備され、文化施設は充実した。

第2次世界大戦(1939~45年)で独ソ戦がはじまるとルーマニアやナチス=ドイツの侵攻を受け、1941年のオデッサの戦いに敗れて占領された。このとき20万~30万人の市民が虐殺されたとされ、多くの建物が破壊された。

それでもオデーサは戦後、急速に回復し、ソ連の主要港でありつづけ、1970年代には人口100万に到達した。1991年の独立でウクライナ領となり、現在ももっとも重要な港湾都市としてありつづけている。

オデーサは多文化融合都市であり、新古典主義・歴史主義・折衷主義様式といった建築にそれが如実に表れている。それは文化交流を示すものであるが、同時にさまざまな国や民族が争った事実をも示している。

○資産の内容

世界遺産の資産として、トルホヴァ通り、サドヴァ通り、プレオブラジェンスカ通り、ジュコフスコホ通り、ポルスキー・ウズヴィズ通りの内側から、港のプラクティアチナ埠頭、カボタズナ埠頭、ノヴァ埠頭、カランティンナ埠頭辺りまでが地域で登録されている。

一帯は碁盤の目状の整然とした街並みで、通りが垂直に交差し、ほぼ正方形の区画が連なっている。もともとは住宅街で、19世紀後半から20世紀初頭に建設されたタウンハウス(2~4階建ての集合住宅)が集中している。加えて教会堂や礼拝堂といった宗教施設や、劇場や美術館・博物館・学校といった公共施設、証券取引所や展示場・ショッピングセンターといった商業施設、ターミナルや倉庫・鉄道・駅といった交通施設が点在しており、これらを海や公園・庭園・並木が彩っている。

オデーサのランドマークがポチョムキン階段だ。プリモルスカ階段やリシュリュー階段、オデーサ階段などとも呼ばれる巨大な階段で、全長142m・幅12.5~21.7m・高低差27mで192段のステップを有している。街と港を結ぶために1837~42年に建設されたもので、ヴォロンツォフが妻のエルジュビエタへの贈り物としたともいわれる。設計はイタリアの建築家フランチェスコ・ボッフォやロシアのメルニコフ・アヴラム・イワノビッチらで、頂部の広場から階段は見えず、眺望に集中することができ、階段からは広場が見えず、階段がより長く見えるよう設計されている。セルゲイ・エイゼンシュテイン監督『戦艦ポチョムキン』に登場したことでも有名で、階段が登場するシーンは「映画史上もっとも有名な6分間」といわれる。

階段の左右にはヘレツキー公園(ギリシア公園)とスタンブルスキー公園(イスタンブール公園)の緑が広がっており、頂部の広場からは黒海を一望できる。港の反対側は歴史主義様式の建物が広場を囲むように並んでおり、中央にリシュリュー公記念碑があり、彫刻家イワン・ペトロヴィチ・モルトスによるリシュリュー像が立っている。リシュリュー公記念碑から南に進むとカテリニンスカ広場で、オデーサ創設者記念碑が設置されている。記念碑の頂部にはエカチェリーナ2世像が立ち、その下にフランソワ=ポール・サント・ド・ヴォランをはじめ4人の功労者の像が並んでいる。

オデーサの象徴的な建物として、オデーサ国立アカデミック・オペラ・バレエ劇場が挙げられる。オデーサ初の劇場として1810年に創設されたが、1873年に焼失し、建築家フェルディナント・フェルナーとヘルマン・ヘルマーによる建築スタジオであるフェルナー&ヘルマーによって1884~87年にネオ・バロック様式で再建された。全体的にウィーンのバロック様式に影響を受けているが、イタリアのロッジア(柱廊装飾)やポルティコ(柱廊玄関)を採り入れ、フランスのロココ様式の内装で華やかに飾るなど、多様な様式を混在させて豪華絢爛な劇場に仕上げている。パレ・ロワイヤル庭園や噴水が隣接しており、一帯には文化的な空間が広がっている。

オペラ・バレエ劇場の東には市議会が入るオデーサ・シティホールがたたずんでいる。フランチェスコ・ボッフォとグレゴリオ・トリチェリの設計で1828~34年に建設された新古典主義様式の建物で、ギリシア神殿を彷彿させる荘厳なデザインとなっている。西ファサードにはコリント式の列柱が立ち並び、穀物生産と貿易振興を願って彫刻家ルイジ・イオリーニによるローマ神話の豊穣の女神ケレスと商業の神メルクリウス(メルキュール)の像が祀られている。シティホールの前の広場にはプーシキン記念碑とフリゲート艦ティグルのカノン砲が置かれている。

シティホールに隣接するオデーサ考古学博物館も新古典主義様式で、建築家フェリクス・ガシオロウスキーの設計で建設されると1825年に市立博物館としてオープンし、後に国立の考古学博物館となった。ポチョムキン階段からシティホール、オペラ・バレエ劇場の周辺がオデーサの心臓部となっている。

資産内の劇場にはもうひとつ、オデーサ地方フィルハーモニー劇場がある。1894~98年に証券取引所として建設された建物で、1924年以降はオデーサ地方フィルハーモニー協会が使用している。設計はロシアの建築家アレクサンドル・ベルナルダッツィで、ゴシック様式やルネサンス様式、ムーア様式(イベリア半島のイスラム教徒の芸術様式)などを混在させた折衷主義様式でデザインされており、イスラム建築の影響はアラベスク(イスラム文様)を思わせる草花文様や幾何学文様などに見られる。

オデーサの象徴的な宮殿・住宅建築として、ヴォロンツォフ宮殿が挙げられる。もともとカチベイ要塞があった場所で、ヴォロンツォフがフランチェスコ・ボッフォに私邸の設計を依頼し、1827~30年にアンピール様式(帝政様式。古代ローマやエジプトを模したナポレオン時代の新古典主義様式)で建設された。特徴的なのはトスカーナ式の列柱と彫刻で、本館のファサードのポルティコや列柱廊、中庭にたたずむベルヴェデーレと呼ばれる記念碑的なコロネード(水平の梁で連結された列柱廊)、ヴェネツィア(世界遺産)の象徴であるライオン像が荘厳な空間を演出している。

宮殿建築としてはブジョゾフスコホ宮殿もよく知られている。ポーランドの貴族であるゼノン・ベリナ=ブジョゾフスキの邸宅としてフェリクス・ガシオロウスキーの設計で1851~52年に建設された。1909~17年の間、イランのカージャール朝のシャー(国王)であるモハンマド・アリー・シャーが住んだことからシャフスキー宮殿(シャーの宮殿)とも呼ばれている。本館は「G」形で、イギリス・ゴシックの影響が強いゴシック・リバイバル様式となっており、頂部に胸壁(凹部と凸部が並ぶ防御用の壁)を巡らして城塞のようなたたずまいを見せている。

アレクサンドル・ペトロヴィチ・ルソフ邸はロシアの実業家の私邸兼ギャラリーとして1897~98年に建設された。外観は重厚なフランスのバロック様式、内装は軽快なロココ様式をベースとした歴史主義様式で、フランスの宮殿のように彫刻やレリーフ、スタッコ(化粧漆喰)、絵画といった華やかな装飾で埋め尽くされている。特にファサードは名高く、数多くの彫像、カリアティード(女性像柱)、アトランティス(男性像柱)、コリント式の柱、多彩なペディメント(三角破風)といった豪奢な装飾が見られる。

こうした特徴的な宮殿や邸宅は数多く、他にG.F.ラファロヴィチ・ビルが有名だ。角度によって一枚の壁のように見えることから「一枚壁の家」とも呼ばれる3階建てのタウンハウスで、デンマークの領事だったG.F.ラファロヴィチが1900年前後に歴史主義様式で建設した。また、メンデレーヴィチ兄弟によって1898~1900年に建設されたメンデレーヴィチ邸はバロック様式とロココ様式をベースとした歴史主義様式で、彫刻をはじめとする華麗な装飾で知られる。この建物の象徴がガラス屋根に覆われたギャラリー(回廊)で、ここから「パサージュ(通路)」と呼ばれている。

資産内にある代表的な宗教建築として、使徒聖ペトロ聖堂が挙げられる。バシリカ式(ローマ時代の集会所に起源を持つ長方形の様式)・単廊式(身廊のみで側廊を持たない様式)のシンプルな教会堂で、1913年に主としてイタリアのバロック建築を模した歴史主義様式で建設された。ポータル(玄関)に掲げられた聖ペトロを描いた黄金のモザイク画(石やガラス・貝殻・磁器・陶器などの小片を貼り合わせて描いた絵や模様)が特徴で、ビザンツ様式の影響が見られる。ソ連時代の一時期はウクライナ南部唯一のローマ・カトリックの教会堂として機能していた。

聖母マリア・ウスペーニャ大聖堂(聖母被昇天大聖堂)もローマ・カトリックの教会堂で、フェリクス・ガシオロウスキーの設計で1853年に奉献された。「†」形のラテン十字式・三廊式(身廊の両側に側廊を持つ様式)の教会堂で、西ファサードに鐘塔、十字の交差部にクロッシング塔(十字形の交差部に立つ塔)を持ち、ゴシック様式やロマネスク様式、バロック様式を混在させた折衷主義様式となっている。

他にもストリャルスキー音楽学校やオデーサ大学本館、オデーサ西洋東洋美術館、マユロフ邸、ミスキー公園など、歴史的価値の高い建造物は数多い。

なお、有名なオデーサ・ファインアート美術館(ポトツキー宮殿)やオデーサ駅、メルニコフ・アヴラム・イワノビッチ・スパソ=プレオブラジェンスキー大聖堂(メルニコフ・アヴラム・イワノビッチ救世主顕栄大聖堂)、スヴャト=トロイツキー大聖堂(聖三位一体大聖堂)などは資産に含まれていない。

■危機遺産リスト登録理由

本遺産は2022年2月24日に開始されたロシアによるウクライナ侵攻を受けて、ウクライナが2022年10月に緊急的登録推薦(顕著な普遍的価値が明白で価値喪失危機に直面した暫定リスト記載物件を手順を短縮して緊急的に推薦すること)を要請し、2023年1月にUNESCO(ユネスコ=国際連合教育科学文化機関)本部で開催された第18回世界遺産委員会臨時会合で世界遺産リストへの登載が検討された。

ここでは世界遺産委員会が原則としている全会一致での登録には至らず、21委員国(アルゼンチン、ベルギー、ブルガリア、エジプト、エチオピア、ギリシア、インド、イタリア、日本、マリ、メキシコ、ナイジェリア、オマーン、カタール、ロシア、ルワンダ、セントビンセント及びグレナディーン諸島、サウジアラビア、南アフリカ、タイ、ザンビア)による表決が行われた。投票した国の2/3以上の賛成で可決されるが、賛成6・反対1・棄権14という結果で登録が決定した。ロシアはこの決定を強く非難し、ウクライナは感謝の意を表明した。

緊急的登録推薦で世界遺産リストに登載された物件はそのまま危機遺産リストにも登録されるため、本遺産も同様の手続きを受けた。登録時点では資産が直接破壊される事態は起きていないが、資産外の港湾施設がミサイル攻撃を受けたり、資産内に位置するヴォロンツォフ宮殿やバッファー・ゾーンに位置するオデーサ・ファインアート美術館の窓や屋根が損傷するなど軽微な被害を出している。歴史的建造物の保護や史資料・収蔵品の避難などが行われているが、管理・監視・保護体制は十分とはいえず、国際社会の一層の注目と支援が必要とされている。

■構成資産

オデーサ歴史地区

■顕著な普遍的価値

○登録基準(ii)=重要な文化交流の跡

オデーサ歴史地区は19世紀の急成長期に発展した多彩な建築様式を通じて東ヨーロッパにおける人類の価値の重要な交流を示しており、多くの文化の共存と、ヨーロッパとアジアの境界エリアの特徴が影響し結合した姿を反映している。

○登録基準(iv)=人類史的に重要な建造物や景観

オデーサ歴史地区は19世紀の都市計画の傑出した「タイム・カプセル」であり、主に19世紀後半から20世紀初頭に築かれた特徴的な建物が立ち並び、産業革命による繁栄に基づく都市の並外れた急成長とその著しい多様性を反映している。

■完全性

オデーサの設計プランは都市の発展とともに変わった部分もあるものの、その主要なアウトラインは変化していない。グリッド構造や、港や海との直線的な接続は都市景観の中で保持されており、容易に視認でき、19世紀の建物も多くが現存している。資産は現行のオデーサ基本計画の統合保護区と同じ境界線を採ることで、顕著な普遍的価値を表現するために必要なすべての要素を網羅することができている。

19世紀と20世紀初頭の主要な建物についてはおおむね無傷で満足のいく状態であると見られるが、適切な管理計画の欠如と不適切な保全方法によって非常に脆弱である。メインストリートを外れた場所に位置する建物について、形状や特徴に関する完全性は現代の改装や不適切な保全に対してきわめて脆弱であると考えられる。緊急時の対応や遺産管理の不十分さを考慮すると、世界遺産登録の時点で個々の建物や一帯の建造物群の完全性がどの程度保持されているか適切な影響評価を行うことが必要である。

■真正性

顕著な普遍的価値を構成する主要素は計画的な都市レイアウトと、貿易を中心としたコミュニティにおける文化多様性を反映した特徴的な建築に関連している。現行のオデーサ基本計画の統合保護区と一致する範囲を採ることで、際立った経済成長期に急速に発展し、社会・文化・建築の影響が複雑に絡み合った建物が支配的である都市の一貫した思想を伝えるすべての必要な要素を包含している。

緊急時の対応や遺産管理の不十分さ考慮すると、世界遺産登録の時点で個々の建物の真正性や保全状況、文脈尊重の程度、過去20年に開発された新しい建物が都市アンサンブルの全体的な真正性にどのように悪影響を与えているかといった点について適切な影響評価を行うことが必要である。

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