スオメンリンナの要塞

Fortress of Suomenlinna

  • フィンランド
  • 登録年:1991年
  • 登録基準:文化遺産(iv)
  • 資産面積:210ha
  • バッファー・ゾーン:2,641ha
世界遺産「スオメンリンナの要塞」、中央右の大きな島がイソ・ムスタサーリ島、中央左の大きな島がスシサーリ島、その左下がクスターンミエッカ島、イソ・ムスタサーリ島の上で橋と結ばれた島がピック・ムスタサーリ島、その左がランシ・ムスタサーリ島、右上がサルッカ島
世界遺産「スオメンリンナの要塞」、中央右の大きな島がイソ・ムスタサーリ島、中央左の大きな島がスシサーリ島、その左下がクスターンミエッカ島、イソ・ムスタサーリ島の上で橋と結ばれた島がピック・ムスタサーリ島、その左がランシ・ムスタサーリ島、右上がサルッカ島
世界遺産「スオメンリンナの要塞」、クスターンミエッカ島のツァンダー城砦
世界遺産「スオメンリンナの要塞」、クスターンミエッカ島のツァンダー城砦 (C) Anneli Salo
世界遺産「スオメンリンナの要塞」、クスターンミエッカ島のクニンカーン門
世界遺産「スオメンリンナの要塞」、クスターンミエッカ島のクニンカーン門 (C) kallerna
世界遺産「スオメンリンナの要塞」、スシサーリ島から眺めたクスターンミエッカ島。下の赤い建物はスオメンリンナ博物館
世界遺産「スオメンリンナの要塞」、スシサーリ島から眺めたクスターンミエッカ島。下の赤い建物はスオメンリンナ博物館
世界遺産「スオメンリンナの要塞」、スシサーリ島の乾ドックと造船所など各種港湾施設
世界遺産「スオメンリンナの要塞」、スシサーリ島の乾ドックと造船所など各種港湾施設
世界遺産「スオメンリンナの要塞」、中央上の塔はイソ・ムスタサーリ島のスオメンリンナ教会、中央下のレンガ造の建物はクルーヌリンナ・エーレンスヴァルド
世界遺産「スオメンリンナの要塞」、中央上の塔はイソ・ムスタサーリ島のスオメンリンナ教会、中央下のレンガ造の建物はクルーヌリンナ・エーレンスヴァルド

■世界遺産概要

スオメンリンナはフィンランドの首都ヘルシンキの沖合約1km、フィンランド湾に浮かぶ6つの島に築かれた要塞コンプレックスだ。要塞の建設は1748年にはじまり、スウェーデン、ロシア、フィンランドそれぞれの時代に増改築を受け、約6kmの防壁と200ほどの建造物が残されている。

○資産の歴史

フィンランドは12世紀頃からスウェーデン王国の侵略を受け、14世紀までにその版図に入ってキリスト教化された。フィンランド湾はバルト海を経て北海・大西洋につながる交通の要衝で、特にロシアの前身となるモスクワ公国(1271~1328年)やモスクワ大公国(1328~1547年)、ロシア・ツァーリ国(1547~1721年)、ロシア帝国(1721~1917年)といった国々にとっては大西洋に出ることのできる最重要航路であり、その確保と安定的な運用はいつの時代にも重大な課題となっていた。

1700年前後、バルト海の覇権を握っていたのはスウェーデンだ。沿岸各国を平定してバルト帝国を成立させたスウェーデンに対し、ロシア、ポーランド=リトアニア、デンマークはひそかに同盟を結んで大北方戦争(1700~21年)を戦った。スウェーデン王カール12世の活躍で序盤は優勢に戦うも、ロシア・ツァーリ国のピョートル大帝が反撃に転じるとスウェーデンの要塞を次々と落として戦況を一変させた。ピョートル大帝はフィンランド湾最奥部にペトロパヴロフスク要塞を建設し、1712年には要塞の周辺に都市を建設して新首都サンクトペテルブルク(世界遺産)が成立した。1714年にはハンゲの海戦でスウェーデン海軍を破ってバルト海の制海権を掌握。フィンランドを占領し、バルト帝国を滅ぼした。1721年に大北方戦争が終結するとロシア側の勝利が確定し、ニスタット条約によりフィンランドはスウェーデンに戻されたものの、バルト海沿岸部の多くがロシアに編入された。この年、ロシアの君主はツァーリに代わってヨーロッパにおける皇帝の称号「インペラトル(インペラートル)」を名乗り、ロシア皇帝が治めるロシア帝国が成立した。

1741~43年にも両国間で戦争が勃発(ハット戦争)し、スウェーデンはフィンランドを守り、ロシアの出口を押さえるためにフィンランド湾に強力な要塞が必要となった。1747年にスウェーデン議会はフィンランド湾の北岸中央に位置するヘルシンキ港の沖合に要塞の建設を決定。翌年、国王アドルフ・フレドリクの命でスウェーデン軍の提督で軍事建築家でもあるアウグスティン・エーレンスヴァルドの指揮下で建設がはじまった。エーレンスヴァルドは「星形要塞」あるいは「ヴォーバン様式」といわれる要塞建築で知られるフランス人建築家セバスティアン・ル・プレストル・ド・ヴォーバンの要塞を参考に、現地で採れる石を利用して稜堡(城壁や要塞から突き出した堡塁)を特徴とする稜堡式要塞の建設を進めた。スシサーリ島とクスターンミエッカ島の要塞を中心に、ヘルシンキ港への航路のポイントとなる島々に城砦が築かれ、海岸線には砲撃や上陸に備えて石造の堅固な防壁が敷かれた。この要塞は1750年に「スウェーデンの要塞」を意味する「スヴェアボリ "Sveaborg"」と命名され、1753~54年には王家のエントランスとしてクニンカーン門(王門)が設置された。スウェーデン時代に要塞の防壁は約8kmまで拡張されてスウェーデン最大の要塞となり、海軍が誇る群島艦隊の基地が置かれた

第1次ロシア=スウェーデン戦争(1788~90年)でスウェーデン王グスタフ3世はロシアを打ち破り、スヴェアボリもこの勝利に貢献した。しかし、フランス皇帝ナポレオン1世の要請でロシア皇帝アレクサンドル1世が起こした第2次ロシア=スウェーデン戦争(1808~09年)ではロシアの艦隊に包囲され、集中的な砲撃を受けて1808年に降伏した。1809年のフレゼリクスハウン条約でフィンランドはロシア帝国の版図に入り、フィンランド大公国として自治が認められた。

ロシア時代、要塞は「ヴィアポリ "Viapori"」と呼ばれた。イソ・ムスタサーリ島を中心に開発が進められ、ロシア軍の駐屯地としてドック(船の製造・修理・点検・荷役・保管等を行う施設)や造船所・兵舎・教会堂・病院などの建設・整備が進められた。クリミア戦争(1853〜56年)では1855年に英仏艦隊によって2日にわたる砲撃を受けて甚大な被害を出したが、要塞が落ちることはなかった。戦後、要塞は改修され、ヴィアポリを中心に陸上と海上に同心円を描くように「クレポスト・スヴェアボリ」と呼ばれる防塞線が構築された。

1917年のロシア革命でロシア帝国が崩壊するとフィンランドは内戦状態に陥ったが、同年12月に独立を宣言。第1次世界大戦(1914~18年)終了後、1919年のパリ講和会議でフィンランド共和国として独立が認められた。内戦時、要塞は刑務所や収容所として使用されたが、独立後ふたたび要塞として整備された。フィンランド人はフィンランドを「スオミ "Suomi"」と呼ぶが、要塞は「スオミの要塞」を意味するスオメンリンナに改称された。1920年代に空軍が配備されて空港や航空機の整備工場が建設され、1930年に海軍士官学校が設立されるなど新たな役割を与えられたが、軍事的な重要性は失われて規模は縮小された。

第2次世界大戦(1939~45年)では潜水艦部隊が配備されるなどして活用されたが、戦後は徐々に武装が解除され、1973年に海軍士官学校を除いて国防軍から教育文化省に移管された。以後、文化遺産としての保護・啓蒙活動が進められ、1991年に世界遺産登録を勝ち取った。

○資産の内容

世界遺産の資産は6つの島、イソ・ムスタサーリ島、スシサーリ島、クスターンミエッカ島、ピック・ムスタサーリ島、ランシ・ムスタサーリ島、サルッカ島と周辺の海域となっており、サルッカ島以外は橋や陸地で結ばれている。

イソ・ムスタサーリ島はロシア時代に要塞の中心的な役割を果たした島で、当時の数多くの建造物が残されている。代表的な建物として、まずフェリー・ターミナルに面した桟橋兵舎が挙げられる。1868~70年に建てられたレンガ造の兵舎で、250人の兵士を収容することができた。内戦時は収容所として使用され、現在は観光案内所やレストランが入っている。スオメンリンナ教会は1849~54年にロシア正教会の教会堂として建設され、1919年にプロテスタントのルター派(ルーテル教会)に移管された。正方形の平面プランにポータル(玄関)とアプス(後陣)を付けた形で、高さ27mの鐘楼は島でもっとも高く、灯台としても使用されていた。当初は新古典主義様式で建設され、中央と四隅に5基のオニオン・ドームを冠していたが、1920年代にグスタヴィアン様式(グスタフ3世の治世である18世紀後半~19世紀初頭を中心に流行したスタイル)で改装されると4基の小塔が撤去され、鐘楼頂部も現在のものに取り替えられた。軍事博物館はロシア時代の兵舎を利用した博物館で、1918年の内戦から第2次世界大戦までの軍事関係の展示物を収蔵している。スシサーリ島の海岸沿いに展示された潜水艦ヴェシッコもこの博物館の所属で、潜水艦基地だった頃の名残となっている。スオメンリンナ博物館も兵舎だった建物で、要塞の歴史を関連の史資料とともに展示している。クルーヌリンナ・エーレンスヴァルドはグスタフ3世が1775年に建設を命じた全長300m超の建物で、下部は石で堅牢に築かれており、上階はレンガ造となっている。こうした構造で防壁を兼ねており、イソ・ムスタサーリ島とスシサーリ島の間に広がる港を囲うように配置されている。軍に関する複合施設でドックや造船所も備えていたが、現在は保育所や図書館・ホール・宴会場・会議場などに使用されている。島の南には1971年から稼働しているスオメンリンナ刑務所があり、囚人たちも要塞の修復作業に従事している。

スシサーリ島はスウェーデン時代に要塞の中心として開発された島で、グレート・コートヤード(中庭)の周囲にバロック様式のオフィスや将校の住宅が建設された。コートヤードの中央にある記念碑はエーレンスヴァルドの墓だ。一帯で最古の建物がエーレンスヴァルド博物館で、もともとエーレンスヴァルドの住宅として1756年に建設された。その後、司令官の官邸となり、1930年に博物館として開館した。周囲には他にも将校のオフィスや住宅として使われていた建物が立ち並んでいるが、多くは1855年の砲撃で被害を受けて改装された。乾ドック(水門を持つ掘割で、船を入れたあと排水して船体の検査・修理を行う施設)は1750年に建設が開始されたフィンランド最古の乾ドックで、隣接する造船所では群島艦隊の艦船が建設された。1910年代には航空機の整備工場が設置され、1930年代には潜水艦基地としても使用された。ドックは現役で、現在でも船舶の修理などが行われている。乾ドック周辺の建物は現在、ホールや会議場として使用されているが、これらは防壁でもあり、港や乾ドックを守る形で取り囲んでいる。スオメンリンナ劇場は稜堡の内部を劇場に改修したもので、周辺のピペリン公園では池のある風光明媚な景観が広がっている。

クスターンミエッカ島はスシサーリ島の南に位置する島で、現在両島は陸続きとなっている。1850~80年代に築かれたクシュタンミエカンは「グスタフの剣」を意味する防衛施設で、砂・泥炭・土塁で造られた堡塁の所々に砲台が設置されている。クニンカーン門は1752年に視察に訪れた国王アドルフ・フレドリクが停泊した場所に造られた貴人のための正門で、外部から持ち込まれた大理石と石灰岩を用いて1753~54年に建設された。スオメンリンナの象徴でもあり、現在もここから貴賓を迎え入れている。ツァンダー城砦は1748~50年に築かれたスウェーデン時代の要塞を代表す防衛施設で、突き出し重なった稜堡群がその威容を伝えている。

ピック・ムスタサーリ島はイソ・ムスタサーリ島とランシ・ムスタサーリ島と橋で結ばれた島で、陸路で連絡可能な5島の中でもっとも小さい。1930年創設の海軍士官学校があり、現在も軍事教育が行われている。

ランシ・ムスタサーリ島はピック・ムスタサーリ島の西に浮かぶ島で、稜堡や兵舎・突堤などが残されている。

サルッカ島は6島のうち橋などで結ばれていない唯一の島で、最小の島でもある。ヘルシンキへの航路を守るために1749~50年代に島を覆うようにサルッカ城砦が整備され、ロシア時代にも兵舎や倉庫が建設された。1924年に城砦を利用したユニークなレストランがオープンし、現在も営業を続けている。

 

■構成資産

○スオメンリンナの要塞

■顕著な普遍的価値

○登録基準(iv)=人類史的に重要な建造物や景観

軍事建築の歴史においてスオメンリンナの要塞は17~18世紀にかけての一般的な要塞システム、特に稜堡式要塞の際立ってすぐれた例であり、さまざまな特徴を網羅したショーケース的な建造物群である。

■完全性

スオメンリンナは建築的要素と要塞としての機能性を両立させた防衛のための実用的な建造物群で、周辺の景観にもよく溶け込んでいる。資産には島々をまたがって展開する要塞システムの全体が含まれており、これにより資産の価値を保存・表現するために必要な十分な広さと一貫性が確保されている。スウェーデンやロシアの時代に建てられた要塞や関連の建造物群のほとんどの保存状態は良好で、フィンランド時代の建造物は数えるほどしか残っていないものの独自のアイデンティティを維持している。懸念点として海水面の急激な上昇や降水量の増加があり、今後資産を脅かす可能性がある。

■真正性

さまざまな時代に築かれた要塞と関連の種々の建造物群および周辺環境は特にスオメンリンナの建築や素材・工法といった特徴をよく保存している。スオメンリンナが住宅地として使用されるようになった頃から確実に資産を保存するために伝統的な建築法が重視されるようになり、修復等はその文化的・歴史的価値を尊重する形で実施されている。

■関連サイト

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