ボルドー、月の港

Bordeaux, Port of the Moon

  • フランス
  • 登録年:2007年
  • 登録基準:文化遺産(ii)(iv)
  • 資産面積:1,731ha
  • バッファー・ゾーン:11,974ha
世界遺産「ボルドー、月の港」、ガロンヌ川の絶景。左の塔がサン=ミシェル・バシリカ、右の橋がピエール橋、その奥の凱旋門がブルゴーニュ門
世界遺産「ボルドー、月の港」、ガロンヌ川の絶景。左の塔がサン=ミシェル・バシリカ、右の橋がピエール橋、その奥の凱旋門がブルゴーニュ門 (C) Lockx3r
世界遺産「ボルドー、月の港」、ガロンヌ川に架かるピエール橋。奥の建物はサン=ミシェル・バシリカ
世界遺産「ボルドー、月の港」、ガロンヌ川に架かるピエール橋。奥の建物はサン=ミシェル・バシリカ
世界遺産「ボルドー、月の港」、サン=ミシェル・バシリカ。左の鐘楼は高さ114.6mを誇るサン=ミシェルのフレッシュ
世界遺産「ボルドー、月の港」、サン=ミシェル・バシリカ。左の鐘楼は高さ114.6mを誇るサン=ミシェルのフレッシュ (C) Jean-Christophe BENOIST
世界遺産「ボルドー、月の港」、ボルドーのサンタンドレ大聖堂。中央が北ファサード、右が身廊、左がアプス、左奥に見える塔がペイ・ベルランの塔で、頂部の像がアキテーヌの聖母
世界遺産「ボルドー、月の港」、ボルドーのサンタンドレ大聖堂。中央が北ファサード、右が身廊、左がアプス、左奥に見える塔がペイ・ベルランの塔で、頂部の像がアキテーヌの聖母 (C) Chabe01
世界遺産「ボルドー、月の港」、左右の鐘楼に挟まれたロマネスク様式のユニークな西ファサードを持つサント=クロワ教会
世界遺産「ボルドー、月の港」、左右の鐘楼に挟まれたロマネスク様式のユニークな西ファサードを持つサント=クロワ教会 (C) Velvet
世界遺産「ボルドー、月の港」、サン=スラン・バシリカの南ポータル。柱は十二使徒像、中央のティンパヌム(タンパン。門の上の彫刻装飾)のレリーフは「最後の審判」
世界遺産「ボルドー、月の港」、サン=スラン・バシリカの南ポータル。柱は十二使徒像、中央のティンパヌム(タンパン。門の上の彫刻装飾)のレリーフは「最後の審判」で、中央はイエス (C) Zarathoustr
世界遺産「ボルドー、月の港」、ブルス広場と水鏡=ミロワール・ドー。建物は、右がパレ・ド・ラ・ブルス、中央がパヴィヨン・サントラル、左がオテル・ド・ドゥワーヌ
世界遺産「ボルドー、月の港」、ブルス広場と水鏡=ミロワール・ドー。建物は、右がパレ・ド・ラ・ブルス、中央がパヴィヨン・サントラル、左がオテル・ド・ドゥワーヌ (C) Mariusz Strawinski
世界遺産「ボルドー、月の港」、ギリシアの周柱式神殿を思わせるグラン・テアトル。左が西ファサードのポルティコ
世界遺産「ボルドー、月の港」、ギリシアの周柱式神殿を思わせるグラン・テアトル。左が西ファサードのポルティコで、頂部に彫像が並んでいる (C) hristophe.Finot

■世界遺産概要

ヌーヴェル=アキテーヌ地域圏の首府であり、ジロンド県の県庁所在地でもあるボルドーの川岸は三日月のような弓形の形状から「月の港(リューヌ港)」と呼ばれている。古代から大西洋やガロンヌ川を利用した海運や河川舟運、あるいは大西洋岸と地中海岸を結ぶ陸運で繁栄し、ケルトやローマ帝国、フランク王国、アキテーヌ公国、イングランド王国、フランス王国といった国々の主要港として2,000年以上にわたって重要な役割を果たしてきた。17世紀後半から18世紀にかけての啓蒙時代や、19世紀の産業革命期の都市改造によって近代都市に生まれ変わり、新古典主義様式(ギリシア・ローマのスタイルを復興したグリーク・リバイバル様式やローマン・リバイバル様式)の都市プランや建造物群の中に古典主義以降の歴史的建造物が点在する美しい街並みが誕生した。

なお、資産内に位置するサンタンドレ大聖堂(ボルドー大聖堂)、サン=スラン・バシリカ、サン=ミシェル・バシリカの3件は世界遺産「フランスのサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路」の構成資産でもある。また、下流には「ヴォーバンの防衛施設群」のメドック城砦、パテ城砦、ブライの城塞があり、河口には「コルドゥアン灯台」や「フランスのサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路」のスラック=シュル=メールのノートル=ダム=ド=ラ=ファン=デ=テル教会がある。また、ボルドー郊外のペサックには「ル・コルビュジエの建築作品 - 近代建築運動への顕著な貢献(スイス/ドイツ/フランス/ベルギー/インド/日本/アルゼンチン共通)」のペサックの集合住宅があり、周辺には「サン=テミリオン地域」や「フランスのサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路」のいくつかの構成資産も点在している。

○資産の歴史

ボルドーは大西洋からジロンヌ川とガロンヌ川を100kmほどさかのぼった上流に位置しており(ガロンヌ川はドルドーニュ川との合流点から河口までジロンド川に名前を変える)、古くから海や川を利用した海運や河川舟運で栄えていた。また、ガリア(ライン川からピレネー山脈、イタリア北部に至る地域。おおよそ現在のフランス・ドイツ西部・イタリア北部に当たる)とイベリア半島、大西洋岸と地中海岸を結ぶルートの要衝でもあり、陸運も盛んだった。

紀元前3世紀頃、ボルドーの地にはケルト系ガリア人による港町ブルティガラがあり、アルモリカ(フランス北西部のセーヌ川とロワール川に挟まれた地域)やブリタンニア(グレートブリテン島南部)などと盛んに交易を行った。紀元前56年に共和政ローマが占領すると、市壁に囲まれたローマ式の城郭都市を建設した。やがてガリア最重要の港湾都市として発達し、大きな市が立ってヨーロッパ中から商人を集めた。この時代にブドウが持ち込まれ、ガロンヌ川河畔で栽培がはじまったと伝えられている(ブドウ栽培の開始時期については諸説あり)。

ローマ帝国の時代には一時期、ローマ属州ガリア・アクィタニアの首都にもなった。この時代の主要交易品は鉛や錫(スズ)・銅・ワイン・小麦・陶磁器などで、地中海から大西洋・北海まで幅広く交易を行った。ただ、この時代の遺跡はパレ・ガリアン(ガリアン宮殿)と呼ばれるアンフィテアトルム(円形闘技場)を除いてほとんど残っていない。また、この頃にキリスト教が伝わり、3世紀にボルドー教区が成立し、4世紀には大司教区に昇格した。

3世紀にローマ帝国はいわゆる「3世紀の危機」を迎え、軍人皇帝の乱立やゲルマン民族の侵入で混乱し、ブルティガラの周辺は一時ガリア帝国として独立した。5世紀前半にゲルマン系の西ゴート王国に征服され、476年の西ローマ帝国滅亡後、507年のヴイエの戦いでフランク王国が西ゴートを破って版図に収めた。7世紀にアキテーヌ公国が成立し、1063年のラ・カステルの戦いでガスコーニュ公国を吸収すると、フランスの中央部から南西部にかけての大領域を支配し、フランス王国(987年のカペー朝成立の時代から西フランク王国は一般的にフランス王国と呼ばれる)の版図をはるかに超えた。

1152年にアキテーヌ公であるアリエノール・ダキテーヌがアンジュー伯・ノルマンディー公・メーヌ伯を兼ねるアンジュー家のアンリと結婚。アンリが1154年にヘンリー2世としてイングランド王位に就くと、イングランド、スコットランド、ウェールズ、アイルランドを得てアンジュー帝国を打ち立てた。こうして現在のフランスの西半分ほどがイングランド領に組み込まれたためフランスとの関係は悪化し、この時代から両国は百年戦争(1337〜1453年)の終わりまで争いを繰り返した。こうした事情もあって13世紀半ばに市壁が拡張され、14世紀には城外に広がった新しい街並みを取り囲むように第2の市壁が建設された。

1214年にボルドーはイングランドの下でワインに関して免税特権を得ると、1253年にコミューン(自治体)を設立して半ば自治を行った。ワインを生産できないイングランドでボルドー産ワインは大いに人気を博し、ワイン交易で繁栄した。

1453年のカスティヨンの戦いで百年戦争が終結し、ボルドーはフランス領となった。フランス王シャルル7世はボルドーに圧力を加え、反乱を防ぐために数々の要塞を建設したが、続くルイ11世は都市の自治を復活させた。ただ、イングランドとの交易が大幅に縮小したため経済は衰退した。

10世紀後半からガリアでもサンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼が開始され、ガリアとイベリア半島を結ぶボルドーは重要な中継地となった。ボルドーにはガリア最古級の教会堂であるサンタンドレ大聖堂やサン=スラン・バシリカがあり、特に前者にはヤコブ(スペイン語で聖ヤコブ=サンティアゴ)の礼拝堂もあったことから、やがて「トゥールの道」と呼ばれるパリからトゥールを経てサン=ジャン=ピエ=ド=ポルに至る巡礼路に組み入れられた。こうした教会堂は11世紀にロマネスク様式、12世紀以降はゴシック様式で建て替えや改装が進められ、交易都市ボルドーにふさわしい巨大な教会堂に生まれ変わった。サン=ミシェル・バシリカが建設された14~16世紀頃までゴシック様式の流行が続いたが、百年戦争が終わる15世紀後半以降は経済が低迷したためルネサンス様式やバロック様式はそれほど普及しなかった。

16世紀に入ると宗教改革の時代となり、カルヴァン派プロテスタントである新教派=ユグノーと旧教派=ローマ・カトリックとの争いが激化した。フランスを二分する争いに発展したが、混乱の中でフランスは中央集権を強化し、都市の自治を奪っていった。17世紀に入ると地方には「アンタンダン」と呼ばれる監察官が置かれ、地方行政や警察・司法・財務を担った。ボルドーはアンタンダンの下でフランスの主要港として整備され、やがてマルセイユ、ナント、ル・アーヴル(世界遺産)と並ぶフランス4大交易港に成長した。結局、17世紀後半にユグノーはボルドーから一掃された。

この頃からボルドーには先端的な思想家が集まった。16世紀、作家・政治家で『エセー(随想録)』の著者として知られるモンテーニュはボルドー市長を務め、ルネサンスのヒューマニズム(人文主義。人間性や人間の尊厳を重視する思想)を持ち込んだ。18世紀前半には著書『ペルシア人の手紙』『法の精神』や三権分立論などで知られるモンテスキューがボルドー高等法院などで活動を行い、啓蒙主義(理性による合理的な知によって蒙(もう)を啓(ひら)こうという思想)を広めた。

18世紀にアメリカ大陸やアフリカ大陸との三角貿易や奴隷貿易が最盛期を迎え、コーヒーやココア・砂糖・綿花といった交易品がもたらされた。さらに、大西洋と地中海を結ぶミディ運河(世界遺産)が開通したことで地中海方面との交易が急増した。都市は拡大して市壁の外にまで広がり、これに対応するためアンタンダンのクロード・ブーシェやルイ=ユルバン=オーベール・ド・トゥルニーがガロンヌ川左岸の近代化を推進した。この設計に大きく貢献したのがジャック・ガブリエルやその息子アンジュ=ジャック・ガブリエル、ヴィクトル・ルイ、アンドレ・ポルティエといった新古典主義建築の巨匠たちだ。彼らの主導で城内と城外の障壁となっている市壁は撤去され、内外を結ぶ通りが整備されるとロワイヤル広場 (現・ブルス広場)やトゥルニー広場、ダキテーヌ広場、ブルゴーニュ広場といった広場が築かれて、城門の跡にはアキテーヌ門やディジョー門、ブルゴーニュ門、モネ門といった新古典主義様式の市門が設置された。また、川辺では「レ・ケ・ド・ボルドー(ボルドー岸壁 ”Les quais de Bordeaux”)」と呼ばれる全長4.5km・幅80mほどの川岸が整備され、埠頭や緑地が設けられた。さらに、建築家ヴィクトル・ルイによるグラン・テアトル(大劇場)や、リシャール=フランソワ・ボンフィンによるパレ・ロアン(ロアン宮殿、現・オテル・ド・ヴィル・ド・ボルドー/ボルドー市庁舎)といった華麗な公共建築や邸宅が建設・再建されて街を彩った。これらは建造物単独でも美しいものであったが、街の美観や快適性を追求した啓蒙主義的表現でもあった。後にナポレオン3世とジョルジュ=ウジェーヌ・オスマンはこの都市化をモデルにパリ改造を進めることになる。

1789年にはじまるフランス革命では王政の廃止と共和政・自由主義・資本主義の推進を掲げるジロンド派(派名はジロンド県選出の議員が多かったことに由来する)の拠点となり、一時は政権をリードした。しかし、1793年にロベスピエールによって多くが捕らえられ、処刑された。カンコンス広場のジロンド派記念碑はこの犠牲者たちに捧げられている。また、1791年には海外でもっとも収益性の高かったカリブ海はイスパニョーラ島の植民地サン=ドマングで黒人奴隷の暴動が勃発し、1804年には中南米で初となる独立国家・ハイチ共和国が成立した。これらに加えてナポレオン戦争(1803~15年)で荒廃し、ボルドーの経済は大きな打撃を受けた。ただ、この時代にナポレオン1世の命令でボルドー初の石橋であるピエール橋が建設されている。ガロンヌ川は潮の満ち引きの影響で激しい洪水が多く、石橋を架けることができなかった。しかし、ナポレオン1世はスペイン独立戦争(1808~14年、半島戦争)で進軍中にその不便さに直面して建設を命じたという。

1852年にはじまるナポレオン3世の第2帝政の時代に産業革命が一気に進展した。1841年に鉄道が開通すると、1852年には首都パリ(世界遺産)と結ばれ、フランス北部やフランドル、ベネルクス地方(ベルギー、オランダ、ルクセンブルクの一帯)との取引が急拡大した。ナポレオン3世は1855年と1867年のパリ万国博覧会(以下、万博)でボルドー産のワインを積極的に売り込み、その後の1878年や1889年のパリ万博でも高く評価されて多くの賞を受賞した。この時代にそれまで一般的だった白ワインに代わって赤ワインが浸透し、ボルドーの赤ワインが赤ワインの代名詞となった。こうしたワインの品質は啓蒙時代に導入されたヴィンテージ制度に加え、ナポレオン3世が進めた格付け制度によって保証された。1855年の格付けで唯一満点を獲得したシャトー・マルゴーをはじめ、5大シャトーのシャトー・ラトゥール、シャトー・オー・ブリオン、シャトー・ムートン・ロートシルト、シャトー・ラフィット・ロートシルトを筆頭にボルドーの赤ワインは世界的な名声を博し、ワイン界の特権階級ということで「ヴァン・ブルジョワ "vins bourgeois"」と称賛された。

産業革命の進展とワイン交易の復活によりボルドーの経済が回復してふたたび近代化が進められた。最たる成果が1853~1902年にかけて築かれた半円状の環状道路、ブールヴァール・ド・ボルドー(ブールヴァールは英語でブールバード。大通り・広小路)だ。全長12km・幅25mで、幅6.5mの歩道や並木帯を備えた大通りで、世界遺産の資産はおおよそこの内側となっている。同時にボルドー右岸もピエール橋の開通以来、急速に開発が進められ、パリ発の列車が出るバスティード・オルレアン駅(後にボルドー・バスティード駅)が開業したほか、左岸のサン=ジャン駅との間を結ぶエッフェル鉄道橋(エッフェル歩道橋)が建設された。この鉄道橋兼歩道橋はボルドー初の鉄橋で、エッフェル塔(世界遺産)の設計で知られるギュスターヴ・エッフェルの指揮の下でスタニスラス・ド・ラロシュ=トレイとポール・レニョーによって築かれた。また、19世紀はじめにローマ時代のカストルム(軍事拠点)跡は商業施設となり、シャトー・トロンペット(トロンペット城)は当時フランス最大を誇った都市型公園であるカンコンス広場となった。

19世紀末までにボルドーは大都市へと変貌を遂げ、ふたつの世界大戦ではフランスの重要拠点として大きな役割を果たした。第2次世界大戦では1940~44年にナチス=ドイツの支配を受けたが、大きな被害はなかった。

○資産の内容

世界遺産の資産はおおよそボルドー左岸のブールヴァール・ド・ボルドーの内側で、南はエッフェル鉄道橋、北はアキテーヌ橋の手前までとなっている。ブールヴァール・ド・ボルドーはおおよそプレジドン・フランクリン・ルーズベルト通り、ジョルジュ・サンク通り、マレシャル・ルクレール通り、アントワーヌ・ゴーティエ通り、プレジドン・ウィルソン通り、ピエール・プルミエ通り、ゴダール通り、アルフレッド・ダネー通り、アルベール・ブランデンバーグ通りが範囲内で、南についてはサン=ジャン駅や線路以南・以西は含まれていない。

主な古代遺跡として、パレ・ガリアンが挙げられる。日本ではガリアン宮殿とも訳される2世紀建設の円形闘技場=アンフィテアトルムの遺跡で、かつては剣闘士や猛獣による戦いが繰り広げられた。長軸132m・短軸111mの楕円形で、約20,000人を収容することができた。中世に入ると多くの石が建材として持ち去られてその形を失い、ローマ時代の宮殿跡と認識されるようになった。

主な宗教施設として、まずサンタンドレ大聖堂が挙げられる。3世紀創建と伝わる南フランス最古級の教会堂で、ボルドーの大司教座が置かれていることからボルドー大聖堂とも呼ばれている。イエスの十二使徒のひとりであるアンデレに捧げられており、同じく十二使徒のヤコブの礼拝堂があることからサンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼の重要な巡礼地となった。11世紀にロマネスク様式の巨大な教会堂に建て替えられ、12~15世紀にかけてゴシック様式への改築が進められた。15世紀には教会堂の東にゴシック様式のペイ・ベルランの塔が建設されている。「†」形のラテン十字式・単廊式(廊下を持たない様式)で、平面140×50m、北ファサードの2基のスパイア(ゴシック様式の尖塔)の高さ80mという巨大な建物となっている。一般的な教会堂はラテン十字の長軸の末端に当たる西ファサード(ファサードは正面)に正門を配してもっとも豪華に仕上げるが、この教会堂の西に他の建物が隣接していたこともあって西ファサードは非常にシンプルで、南ファサードと北ファサードを飾り立てている。特に壮麗なのが北ファサードで、下層の正門・王のポータル(玄関)はゴシック様式の彫刻やレリーフで埋め尽くされ、中層のバラ窓やランセット窓(細長い連続窓)は見事なステンドグラスで飾られており、上層は2基のスパイアや多数のピナクル(ゴシック様式の小尖塔)・ガーゴイル(悪魔や怪物を象った雨樋)で覆われている。南ファサードは北ファサードに比べて控え目でスパイアも見られないが、やはり見事なバラ窓やランセット窓、ゴシック彫刻・レリーフで飾られている。内部も同様に多くの彫刻やフレスコ画・絵画・ステンドグラスで彩られている。ペイ・ベルランの塔は1440~1500年に築かれたゴシック様式の鐘楼で、高さ66mの頂部に「アキテーヌの聖母」と呼ばれる高さ6mの黄金の聖母子像を掲げている。もともとは北ファサードの双塔が鐘楼として使用されていたが、地盤が脆弱で鐘の揺れが建物を傷めたことから新たに建設された。

サン=スラン・バシリカのある場所はもともとキリスト教徒のネクロポリス(死者の町)で、400以上の墓が発掘されている。5世紀にボルドー大司教を務めたノリクムのセヴェリヌス(フランス語でスラン)に捧げる礼拝堂が6世紀に建設され、これが前身となったようだ。この礼拝堂にはフランク王国のカール大帝に仕えたパラディン(騎士。侍従)のロラン(ドイツ語でローラント)がイスラム教勢力との戦いで戦死した際にその遺体が置かれたとの伝説が伝わっており、象牙で作られたロランのオリファント(角笛)が聖遺物として伝えられている。11世紀にロマネスク様式で再建が開始され、13世紀までゴシック様式への改装を行いながら建設が進められた。14~15世紀には内部に多くの礼拝堂が設置されている。フランス革命やナポレオン戦争で損傷したため、西ファサードは19世紀にロマネスク・リバイバル様式で修復された。全長77mほどのバシリカ式(ローマ時代の集会所に起源を持つ長方形の様式)・三廊式(身廊とふたつの側廊を持つ様式)の教会堂で、ロマネスク様式、ゴシック様式、ロマネスク・リバイバル様式の折衷となっている。特に13世紀に築かれたゴシック様式の南ポータルの彫刻やレリーフ群は非常に名高い。

サン=ミシェル・バシリカはボルドーのランドマークである鐘楼・サン=ミシェルのフレッシュで知られる。もともと市壁外に建てられていたが、15世紀にフランス王ルイ14世によって城内に移転され、16世紀までにゴシック様式の教会堂が建設された。75×38mほどのラテン十字式・三廊式の教会堂で、身廊の脇には17の礼拝堂が連なり、それぞれ使徒や聖人に捧げる彫刻やレリーフ・絵画で飾られている。サンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼地のひとつで、ヤコブの礼拝堂も存在する。バラ窓やランセット窓のステンドグラスは16~20世紀のもので、イエスの系譜を記した「エッサイの木」と呼ばれる16世紀の作品が名高い。サン=ミシェルのフレッシュはフランス南部でもっとも高い鐘楼で、高さ114.6mを誇る。18世紀に暴風で高さ99mとなったが、1861~69年に頂部に新たなスパイアが設置された。鐘楼の地下にはクリプト(地下聖堂)があり、18世紀に発見されて数十体の遺骨が発掘された。

サンテロワ教会は聖エリギウス(フランス語で聖エロワ)に捧げられた教会堂で、最初の教会堂は12世紀にロマネスク様式で建設された。13世紀に市壁に沿う形でゴシック様式で建て替えられ、15世紀まで改装や修復が続けられた。全長35mほどのバシリカ式・二廊式で、北面が壁と接していたため、側廊や礼拝堂は南側にのみ設置されている。西ファサードの北側はグロス・クロシュ(大鐘)の名で知られるサン=ジェームス門(サンテロワ門)と一体化している。

サン=ピエール教会のあるサン=ピエール地区はローマ時代に港があった場所で、12世紀に港を埋め建てて再開発され、ボルドーの中心部となった。この頃、ロマネスク様式の教会堂が建設され、14~15世紀にゴシック様式で建て替えられて、19世紀にゴシック・リバイバル様式による修復を受けた。バシリカ式・三廊式の教会堂で、古いステンドグラスは少ないものの、19世紀のガラス職人ジョゼフ・ヴィレットの美しいステンドグラスで知られる。

サン=ブルーノ教会は修道会のカルトゥジオ会によって創設された教会堂で、ボルドーでもっとも古く大きな墓地であるシャルトルーズ墓地の北東にたたずんでいる。1611~20年に建設されたボルドー初のバロック建築で、フレスコ画が描かれた美しい筒型ヴォールト(筒を半分に割ったような形の連続アーチ)天井や、バロックの画家であるフィリップ・ド・シャンパーニュの祭壇画、コリント式の大理石柱、巨匠ジャン・ロレンツォ・ベルニーニの彫刻群といった華麗な装飾で覆われている。

タンプル・デュ・ア(ア寺院)は1625~38年にローマ・カトリックの教会堂としてバロック様式で建設され、フランス革命後の1803年にナポレオン1世によってプロテスタントに割り当てられた。バロック様式といっても装飾の少ないデザインとなっている。

ノートル=ダム教会は1684~1707年に都市設計家で建築家のピエール・デュプレシ=ミシェルによって建設されたバロック様式の教会堂だ。バシリカ式・三廊式で、東ファサードに正門があり、西にアプス(後陣)のある通常と反対の造りとなっている。東ファサードは彫刻やレリーフ、ステンドグラス、コリント式の柱などで飾られており、西のアプスには主祭壇を囲むように聖母マリアの生涯を描いたフレスコ画が描かれている。北にはクール・マブリーと呼ばれるクロイスター(中庭を取り囲む回廊)や、サレ・キャピチュレと呼ばれるチャプター・ハウス(会議室・集会所)があり、現在は展覧会やコンサートなどのイベント会場として使用されている。

サント=クロワ教会(聖十字架協会)は7世紀に創設されたベネディクト会のサント=クロワ修道院の修道院教会だった建物で、18世紀に修道院が廃院されて教区教会となった。11~12世紀にロマネスク様式で建設されたラテン十字式・三廊式の教会堂で、特に西ファサードがユニークで多くの彫刻・レリーフ・柱廊装飾が見られ、左右両端に非対称の2基の鐘楼を有している。中央上部と北塔は建築家ポール・アバディによって1861~65年に修復・増築されている。

グラン・シナゴーグはナポレオン1世によって1808年に創設されたユダヤ教の礼拝堂であるシナゴーグで、現在の建物は建築家シャルル・デュランとポール・アバディによって1877~82年に建て替えられた。ヨーロッパでもっとも美しいシナゴーグのひとつとされ、ゴシック・リバイバル様式をベースにイスラム建築などオリエンタリズムの影響が見られる独特のスタイルとなっている。

主な宮殿や公共建築として、まずパレ・ロアン(ロアン宮殿)が挙げられる。ロアン家の大司教フェルディナン=マクシミリアン=メリアデック・ド・ロアンが大司教宮殿として建てた新古典主義様式の建物で、リシャール=フランソワ・ボンフィンの設計で1771~84年に建設された。フランス革命後に接収されて市の施設となり、1808年にはナポレオン1世が皇宮とし、ルイ18世が即位してブルボン朝が復活すると王宮となった。1835年にオテル・ド・ヴィル・ド・ボルドーとなり、現在までボルドー市庁舎として使用されている。外壁はイオニア式の角柱のピラスター(付柱。壁と一体化した柱)で囲まれており、東西のファサードの中央上部にペディメント(頂部の三角破風部分)を掲げるギリシア神殿のような重厚な造りとなっている。内部には市長室や議場・応接間・ダイニングをはじめ数多くの部屋があり、もともと宮殿だったこともあって華麗な彫刻やレリーフ・絵画などで飾られている。特に名誉の階段はフランスでもっとも美しい階段のひとつと讃えられている。建物の西にはメリー庭園が広がっており、15~20世紀の絵画を収蔵するため1801年に設立されたボルドー美術館がたたずんでいる。

グラン・テアトルは日本語でボルドー大劇場や国立歌劇場などと訳される新古典主義様式の劇場で、ヴィクトル・ルイの設計で1773~80年に建設された。ギリシアの周柱式神殿を彷彿させる88×47mの建物で、コメディ広場に面したポルティコ(列柱廊玄関)には12本のコリント式の柱が立ち並び、頂部には彫刻家ピエール=フランソワ・ベルリとその弟子によるユーノー(ギリシア神ヘラ)やミネルウァ(ギリシア神アテナ)、ウェヌス(ギリシア神アフロディーテ)ら12体の女神像を掲げている。ドーム下の天井のフレスコ画(生乾きの漆喰に顔料で描いた絵や模様)は画家ジャン=バティスト=クロード・ロバンによるもので、やはりアポロ(ギリシア神アポロン)をはじめローマの神々が描き出されている。

コメディ広場を挟んでグラン・テアトルの西正面に立つグラン・オテルの東ファサードもヴィクトル・ルイの設計で、広場の重厚な空間を演出している。1779年に完成した新古典主義建築で、現在はインターコンチネンタル・グループのホテル&スパとして使用されている。また、グラン・テアトルの東に立つオテル・ド・セージもヴィクトル・ルイによって1775~77年に建設されたものだ。なお、フランス語の「オテル」は大型の公共建築を示す。

ロワイヤル広場のパレ・ティアック(ティアック宮殿)はパレ・ド・ジュスティス(司法宮)とも呼ばれる建物で、ボルドー控訴院をはじめ司法機関が集中している。地元ボルドーの建築家ジョセフ=アドルフ・ティアックの設計で1839~46年に建設された新古典主義様式の建物で、ドーリア式(ドリス式)の列柱が並ぶポルティコを入ると、列柱とステンドグラス・彫像が調和したパ・ペルデュのサル(サルは部屋・広間)と呼ばれる広間が広がっており、さらに内部には14の法廷が収められている。この辺りは中世、ア城砦という城砦があった場所で、北に隣接する国立司法学院にはその遺構である塔が残されている。

ロワイヤル広場を挟んでパレ・ティアックの南に位置するサンタンドレ病院は市民と巡礼者のための病院や保護施設として14世紀に創設された。16~17世紀に再建され、19世紀前半に建築家ジャン・ビュルゲの設計で新古典主義様式で建て直された。

ブルス広場はもともとロワイヤル広場(王室広場)と呼ばれており、ボルドーの顔となる広場を目指してルイ15世によって開発された。設計は王室建築家であるジャック・ガブリエルとその息子アンジュ=ジャック・ガブリエルで、1730~55年に新古典主義様式で建設された。当時は中央に彫刻家ジャン=バティスト・ルモワーヌによるルイ15世騎馬像が設置されていた。1789年にフランス革命が勃発すると、1792年に騎馬像が撤去されてリベルテ広場(自由広場)に改称され、第1帝政時代はアンペリアル広場(皇帝広場)、復古王政期は新ロワイヤル広場となり、1848年にブルス広場に落ち着いた。1828年に噴水が設置され、1869年には彫刻家シャルル・ギュムリーによってアグライアー、エウプロシュネー、タレイアの三美神像が掲げられた。広場の東に広がる水鏡=ミロワール・ドーは2006年に設置された水の庭園だ。

ブルス広場を囲む建物について、ブルス広場の西から南にかけて広がる建物がオテル・ド・ドゥワーヌだ。ジャック・ガブリエルの設計で1735~38年に建設された建物で、「ドゥワーヌ」が税関・関税を意味するように税関として使用された。現在は国立税関博物館として一部が公開されている。広場の西から北にかけて伸びるのがパレ・ド・ラ・ブルス(ブルス宮殿)だ。こちらもジャック・ガブリエルの設計で、1742年に建設がはじまって同年に亡くなるとアンジュ=ジャック・ガブリエルが引き継いで1749年に完成させた。商工会議所や商事裁判所・証券取引所などが入り、ボルドーの経済を動かした。これらふたつの新古典主義様式の建物はほぼ対称のデザインで、いずれも神々のレリーフを収めたペディメントやイオニア式の円柱・角柱などで飾られ、欄干などに金属を用いてアクセントを加えている。加えてふたつの建物の間に立つパヴィヨン・サントラル(中央パビリオン。1735~55年)も同様のファサードを持ち、3棟の建物で広場の荘厳な空気を演出している。

カンコンス広場は1810~28年にシャトー・トロンペット(トロンペット城)の跡地に造られた広場で、都市型公園としてはフランス最大級を誇る。南北を林とする特徴的なレイアウトで、西端に教会堂のアプスのような半円状のスペースが設けられている。半円の外には調和の取れた新古典主義様式の建物が整然と並んでおり、こうした建造物群も含めて開発された。東のガロンヌ川側には門のように2本のロストラ柱がたたずんでいる。ロストラ柱は戦勝を記念した戦勝柱で、海における繁栄を祈念して1829年に建てられた。頂部に据えられているのは商業の神メルクリウス(ギリシア神ヘルメス)と先導の神ディアーナ(ギリシア神アルテミス)だ。19世紀後半には半円状のスペースの開発が進められ、1902年にジロンド派記念碑と噴水が完成した。ジロンド派記念碑は高さ54mで、基壇の上に高さ43mの柱を据え、頂部に自由の女神像を掲げている。ふたつの池はガロンヌ川とドルドーニュ川を象徴しており、それぞれ女神や馬車などの彫刻で飾られている。

パルルマン広場(議会広場)は1760年にマルシェ・ロワイヤル(王室市場)の名で造られたスペースで、ボルドー議会にちなんでフランス革命後に命名された。周辺の建物は18世紀前半に築かれた新古典主義様式の建造物群で、1865年には中央にパルルマン噴水が設置された。

主なインフラ施設として、まずグロス・クロシュが挙げられる。13世紀に築かれた城門を15世紀にゴシック様式で再建したもので、オテル・ド・ヴィルの鐘楼として町の象徴となった。グロス・クロシュは愛称で、上部に取り付けられた大きな鐘から「大鐘」を意味するこの名が付いた。市門としては、隣接するサンテロワ教会にちなんでサンテロワ門、あるいはサンティアゴ・デ・コンポステーラへの巡礼者がこの門を通ることからサン=ジェームス門(ヤコブはフランス語でジャックあるいはジェームス)と呼ばれている。高さ40mで頂部に円錐形の双塔と六角形の鐘塔を持ち、中央上部に大鐘を掲げている。1775年に鋳造された重さ7.75tの大鐘は第1日曜日の正午や主要な祝日、フランス革命記念日、第2次世界大戦のヨーロッパ戦勝記念日などに鳴らされている。

パレ広場に立つカイヨ門はもともと市壁に設置されていた城門のひとつで、1493~96年に建て替えられた。フランス王シャルル8世のイタリア戦争のフォルノーヴォの戦いにおける勝利を記念した凱旋門でもある。高さ35mで、尖塔や尖頭アーチに見られるようにゴシック様式をベースとしているが、ルネサンス様式の影響も確認できる。塔身にはシャルル8世や福音記者ヨハネ、エスピネー大司教といった人物像が掲げられているが、多くはフランス革命で破壊されて復元されている。

18世紀に建てられた新古典主義様式の市門にはアキテーヌ門、ディジョー門、ブルゴーニュ門、モネ門があり、建築家アンドレ・ポルティエが建設を主導した。アキテーヌ門はローマ時代の凱旋門を模して1749~54年に建設された市門で、アキテーヌ公グザヴィエ・ド・フランスを讃えて命名された。頂部のペディメントには海神や果物・花のレリーフが掲げられている。ディジョー門はもともとローマ時代の城門のひとつで、現在の門は1748~53年に建設された。ブルゴーニュ門は中世の城門を1750~55年に建て替えた市門で、1808年にナポレオン1世がここから入城したことからナポレオン門とも呼ばれていた。ローマ時代の凱旋門を模しながらも、直線を多用したモダンなデザインとなっている。モネ門は1758~59年に建設された市門で、やはり凱旋門を模しているが、4門の中ではもっともシンプルで小さいものとなっている。

ガロンヌ川に架かる歴史的な橋として、まずピエール橋が挙げられる。ナポレオン1世の命令で1810~22年に建設されたボルドー初の石造アーチ橋で、全長487m・幅19m(当初は14.6m)を誇る。アーチの数である17はナポレオン・ボナパルトの文字数と一致することで知られるが、これは意図的なものではなかったようだ。アーチの間に取り付けられたメダリオン(メダル状の装飾)は皇帝の権威を祝福したもので、中に町の紋章が刻まれている。

エッフェル鉄道橋あるいはエッフェル歩道橋はボルドー初の鉄橋で、ガロンヌ川右岸のバスティード・オルレアン駅と左岸のサン=ジャン駅を結ぶ鉄道橋兼歩道橋として1858~60年に建設された。ギュスターヴ・エッフェルのチーフエンジニアであるスタニスラス・ド・ラロシュ=トレイが中心となって設計を行い、6基の橋脚を持つ全長504m・幅8.6mの鉄橋を完成させた。エッフェルのチームはこの橋で鉄骨造や三角形を駆使したトラス構造をはじめ数々の技術的実験を行い、後のエッフェル塔の建設などに役立てた。

ボルドーには近代・現代建築の傑作も数多く、新古典主義様式の門にアール・デコ様式の建物を持つピシーヌ・ジュダイック(ユダヤ・プール)、同じくアール・デコ様式のブルス・デュ・トラヴァイユ(労働評議会)、第2次世界大戦中にナチス=ドイツが建設した鉄筋コンクリート造の潜水艦基地バーズ・スー=マリーン、2013年に開通した近未来的なジャック・シャバン=デルマス橋、2016年にオープンしたポストモダン(ポスト・モダニズム)なワイン展示スペースであるシテ・デュ・ヴァン(ワイン街)など、ユニークな建物が少なくない。

■構成資産

○ボルドー、月の港

■顕著な普遍的価値

○登録基準(ii)=重要な文化交流の跡

本遺産は2,000年以上にわたる人類の価値観の交流の卓越した証である。こうした交流は啓蒙時代にこの国際都市に比類ない繁栄をもたらし、19世紀から現在に至る都市と建築の並外れた変容をもたらした。港湾都市の建設と発展のさまざまな段階はその都市プラン、特に18世紀初頭から実施された大きな変革の中に読み取ることができる。

○登録基準(iv)=人類史的に重要な建造物や景観

本遺産は啓蒙時代に生み出された傑出した都市と建築のアンサンブルであり、その価値は20世紀前半まで継続して生産されつづけた。ボルドーは都市と建築における古典および新古典の表現の統一性に関して際立っており、2世紀以上にわたってあらゆるスタイルが断絶することなく登場しつづけた。その都市形態は町をヒューマニズム・普遍性・文化のメルティング・ポット(るつぼ)にしようと望んだ哲学者たちの成功を象徴している。

■完全性

ボルドーは現在も稼働を続ける港によって、創設以来、移動と交易の都市としての機能を保持している。ローマ時代から20世紀に至る歴史はその都市プランで容易に判読できる。もっとも重要な変化は18世紀の啓蒙時代に起きた変革で、1733年にはまだ中世の市壁に囲まれた城郭都市だったが、1790年までに町は市壁の外にまで拡張されて近代都市へと進化した。

資産の全体として完全性が維持されており、本遺産の価値を表現するすべての本質的な物理的要素が含まれている。

■真正性

ローマの都市プランや13~14世紀に行われた都市プランの拡張のように、都市の形成はその歴史と一致するため、ボルドーの歴史は都市プランで容易に判読することができる。特に1733年と1790年の都市プランの比較は18世紀のボルドーの変革を証明している。それまで閉ざされていた古い都市は啓蒙主義者の都市設計に従って改装されて、現在に至る開かれた都市となった。18世紀と19世紀に築かれた歴史的建造物や空間によってその真正性を確認することができる。特に18世紀の一連のプラン、アンタンダンのルイ=ユルバン=オーベール・ド・トゥルニーの計画に沿って建築家アンジュ=ジャック・ガブリエルやヴィクトル・ルイらが手掛けた作品群は都市の中でよい状態で保全されている。

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