イヴァノヴォの岩窟教会群

Rock-Hewn Churches of Ivanovo

  • ブルガリア
  • 登録年:1979年
  • 登録基準:文化遺産(ii)(iii)
  • 資産面積:171.9ha
世界遺産「イヴァノヴォの岩窟教会群」、ルセンスキ・ロム自然公園にそびえる断崖
世界遺産「イヴァノヴォの岩窟教会群」、ルセンスキ・ロム自然公園にそびえる断崖
世界遺産「イヴァノヴォの岩窟教会群」、断崖に刻まれた聖母聖堂の窓
世界遺産「イヴァノヴォの岩窟教会群」、断崖に刻まれた聖母聖堂の窓 (C) Hans A. Rosbach
世界遺産「イヴァノヴォの岩窟教会群」、聖母聖堂の内部。壁面や天井にフレスコ画が見られる
世界遺産「イヴァノヴォの岩窟教会群」、聖母聖堂の内部。壁面や天井にフレスコ画が見られる (C) Hans A. Rosbach
世界遺産「イヴァノヴォの岩窟教会群」、イエスと使徒たちのエルサレムにおける活動を描いた聖母聖堂のフレスコ画。中央は「最後の晩餐」
世界遺産「イヴァノヴォの岩窟教会群」、イエスと使徒たちのエルサレムにおける活動を描いた聖母聖堂のフレスコ画。中央は「最後の晩餐」 (C) Hans A. Rosbach
世界遺産「イヴァノヴォの岩窟教会群」、聖母聖堂のフレスコ画。壁面はイエスの使徒たち
世界遺産「イヴァノヴォの岩窟教会群」、聖母聖堂のフレスコ画。壁面はイエスの使徒たち (C) Vislupus

■世界遺産概要

ルセ州の州都ルセの南15kmほどにあるイヴァノヴォ村の郊外に位置する世界遺産で、ドナウ川の支流のひとつであるルセンスキ・ロム川沿いの断崖を掘り抜いて築いた教会堂・礼拝堂・石窟庵が残されている。13世紀前半に修道士ヨアキム(ブルガリア正教会総主教ヨアキム1世)が切り拓いた修道院跡で、第2次ブルガリア帝国(1187~1396年頃)の皇帝たちの支援を受けて13~14世紀にかけて繁栄し、特にタルノヴォ派のフレスコ画(生乾きの漆喰に顔料で描いた絵や模様)はビザンツ様式の中でもパレオロゴス朝ルネサンスの最高傑作として名高い。

○資産の歴史

13世紀はじめ、ヨアキムはギリシアの聖山であるアトス山(世界遺産)の修道院に身を置き、俗世との交流を断って修行に勤しんだ。徹夜や断食で身体を酷使しながら祈りつづける厳しい修行はアトス山で評判となり、名声を博したという。

数年後に山を下りて故郷のブルガリアに戻ると、ルセンスキ・ロム川沿いに広がる峡谷に居を定め、数人の弟子とともに断崖に小さな岩窟教会を築いて隠遁生活を続けた。

第2次ブルガリア帝国最盛期の皇帝イヴァン・アセン2世はヨアキムの名声を聞き付けて表敬訪問し、大いに感銘を受けた。そしてヨアキムを支援して資金や人材を送り、数々の教会堂や礼拝堂・僧院を築いて大天使ミカエル(ブルガリア語でミハイル)に捧げる修道院コンプレックスとして整備した。

ブルガリアの地はビザンツ帝国(東ローマ帝国)の時代から正教会が支配的だったが、独立性が高く、10世紀にはブルガリア正教会は独立正教会として認められ、正教会の首長であるコンスタンティノープル総主教に次ぐ総主教位を与えられた。その後、総主教から大主教に格下げされ、独立性も失われたが、ローマ・カトリックとも交流を持つなど独自の立場を守った。そんな中で皇家であるアセン家は独立した教会組織を回復することを悲願とし、イヴァン・アセン2世はローマ・カトリックとの関係を断ち、コンスタンティノープル総主教ゲルマノス2世にブルガリア正教会を独立正教会として認めさせることに成功し、総主教位を回復した。

ブルガリア正教会の総主教バジル1世が指名したことから1235年にヨアキムがヨアキム1世として総主教位に就いた。ヨアキム1世は教会や修道院の活動を支援し、孤児や貧民を助けるなど多くの福祉政策を推進した。イヴァン・アセン2世が1241年に亡くなると、ヨアキム1世は弱冠7歳で皇帝位を継いだ息子カリマン1世の摂政として幼帝を支えた。ヨアキム1世が1246年に死去すると、まもなく列聖(徳と聖性を認めて聖人の地位を与えること)されている。

以後、第2次ブルガリア帝国はモンゴル帝国やビザンツ帝国の圧力にさらされながらも独立を貫き、イヴァノヴォの修道院も皇帝をはじめ貴族の支援を受けて繁栄を続けた。ヨアキム1世の禁欲的な生活を範とするヘシカズム(正教会において祈りによって神を観想して心の静寂を実現しようという神秘主義思想。静寂主義)が広がり、13~14世紀に体系化されると、多くの修道士がイヴァノヴォの修道院に集まり、断崖に小さな石窟庵を掘って祈りつづけた。

ビザンツ帝国はこの頃、最後の王朝であるパレオロゴス朝(1261~1453年)の時代に入っていた。オスマン帝国の圧力を受けて国としては衰退していたが、先進的なイスラム文化の刺激を受けて文化的には成熟期を迎えていた。ギリシア・ローマの科学や芸術は中世ヨーロッパよりもイスラム世界で盛んに研究されていたが、これらを逆輸入する形で古典復興が進められ、パレオロゴス朝ルネサンスが花開いた。第2次ブルガリア帝国では首都タルノヴォ(現・ヴェリコ・タルノヴォ)がその中心地となり、ヘレニズム美術の影響が色濃いなど独自に発達したことから「タルノヴォ派」と呼ばれた。特に装飾の評価は高く、華やかなイコン(聖像)を伴う装飾写本やテンペラ画(顔料に接着剤となるバインダーを混ぜた塗料で描いた絵画)、フラスコ画が名を馳せた。タルノヴォの貴族たちはイヴァノヴォの修道院を支援し、タルノヴォ派の芸術家を送り込んで教会堂や礼拝堂をフラスコ画で飾った。一帯には最盛期に40を超える教会堂や礼拝堂、100を超える石窟庵があったと伝えられている。

14世紀半ばの皇帝イヴァン・アレクサンダルもイヴァノヴォの修道院の支持者で、数多くの寄進を行った。しかし、第2次ブルガリア帝国はビザンツ帝国やハンガリー王国、セルビア王国、オスマン帝国といった強国に囲まれ、この時代が最後の安定期となった。1371年にイヴァン・アレクサンダルが亡くなると統制が困難となり、いくつかの地方が独立した。1375年に皇帝イヴァン・シシュマンがオスマン帝国に臣従を誓い、その支配下に入った。この後、他のキリスト教国とともに1378年のコソヴォの戦いや1396年のニコポリスの戦いなどを戦うが敗北し、14世紀末に滅亡した。

イスラム教国であるオスマン帝国はタルノヴォに入ると多くの教会堂をモスクに建て替え、あるいは破壊した。当初はイスラム教への改宗を強制し、多くの聖職者が処刑された。こうした弾圧によりブルガリア正教会は著しく衰退し、総主教も流刑に処された。ただ、その後オスマン帝国が信教の自由を認めたため、ブルガリア正教会は主教区に格下げされ後、コンスタンティノープル総主教の下に入って継続した。イヴァノヴォの修道院は17世紀頃まで細々と活動を続けていたようだが、やがて放棄された。この過程で修道院コンプレックスの建造物は一部の岩窟教会や石窟庵を除いてほとんど失われた。

○資産の内容

世界遺産の資産はルセンスキ・ロム川沿いに広がるルセンスキ・ロム自然公園内に位置しており、U字形の峡谷とその周辺が地域で登録されている。

高さ30~40mほどの断崖に数多くの石窟が掘られており、その多くが小さな石窟庵となっている。現存する教会堂や礼拝堂は、聖母聖堂、聖テオドル聖堂、大天使聖ミハイル礼拝堂、ゴスポデフ・ドル礼拝堂、洗礼堂の5堂だ。このうち聖母聖堂のみ左岸(西岸)にあり、他の4堂は右岸(東岸)に位置している。

ヨアキムの時代から主教会だった教会堂が聖母聖堂だ。断崖の高さ38mほどに口を開けた岩窟教会で、イヴァン・アセン2世やイヴァン・アレクサンダルをはじめ代々の皇帝が支援を行った。壁や天井は14世紀半ばに描かれたイヴァノヴォを代表するフレスコ画で彩られている。主題は「エルサレム入城」「最後の晩餐」「イエスの受難」といった『新約聖書』の物語や、イエスの十二使徒や洗礼者ヨハネ、聖ステファヌス(聖ステファノ/聖ステファン)といった使徒や聖人で、イヴァン・アレクサンダルの姿も見られる。

聖母聖堂に匹敵するフレスコ画が残されているのがゴスポデフ・ドル礼拝堂だ。いくつかの部屋からなる岩窟礼拝堂で、イエスやマリアに関するフレスコ画が多く、「キリストの祝福」「キリストの昇天」「キリストの地獄への降下」「聖母マリアの被昇天」などが知られている。14世紀はじめに修道士イヴォ・グラマティクが刻んだ碑文があり、皇帝ゲオルギ1世テルテルの埋葬地であることなどが記されている。

大天使聖ミハイル礼拝堂は「埋葬教会」ともいわれる岩窟礼拝堂で、その名の通り大天使ミカエルに捧げられており、3層構造で6室を備えている。ミカエルをはじめとするフレスコ画が見られる。

聖テオドル聖堂は8~9世紀の正教会修道士・聖テオドロス(ブルガリア語でテオドル)に捧げられた教会堂で、崩れた天井から「解体教会」の異名を持つ。いくつかのフレスコ画が見られるが、欠けていたり薄くなってしまったものが多い。

洗礼堂は自然に近い洞窟で、壁は漆喰等で処理されておらず、フレスコ画も残されていない。

■構成資産

○イヴァノヴォの岩窟教会群

■顕著な普遍的価値

○登録基準(ii)=重要な文化交流の跡

13~14世紀、ルセンスキー・ロム川沿いの自然の岩盤に多数の教会堂・礼拝堂・修道院・石窟庵が切り拓かれた。教会堂に残るフレスコ画は14世紀の絵画と中世ブルガリア美術における卓越した芸術性と並外れた芸術的感性を示しており、南東ヨーロッパのキリスト教美術における重要な成果といえる。その精神と主題の要素においてフレスコ画は古典回帰的でビザンツ図像学の規範から逸脱しており、表現豊かなヘレニズム美術との密接な関係がうかがえる。構図・物語・感情的雰囲気の中でヌード・風景・建築的背景を明確に好み、これらのクオリティの高さが作品群を比類ない傑作に引き上げている。

○登録基準(iii)=文化・文明の稀有な証拠

修道院の大規模な建造物群は第2次ブルガリア帝国の時代からオスマン帝国によるブルガリア征服の時代の間に築かれた。一帯には13~14世紀にさかのぼる5基の歴史的建造物があり、教会堂・礼拝堂・石窟庵をはじめとする修道院コンプレックスの豊穣性・多様性・独自の建築ソリューションといったすべてが雄大な自然環境の中にあり、この驚異的な歴史エリアの価値を高めている。

■完全性

資産は顕著な普遍的価値を示す必要なすべての要素を範囲内に含んでいる。教会群の築かれた岩盤は安定性に深刻な問題を抱えており、長年にわたって継続的な研究プログラムや科学的・技術的・デザイン的なプロジェクトが岩盤構造の強化や安定化を図ってきた。すべての統計分析は気象学的・計器的データ処理および研究に基づいており、聖母聖堂では「岩盤の調査・特定・安定化・防水化」のためのプログラムが実施された。

■真正性

カルストの岩盤に口を開けた自然の岩窟に築かれたイヴァノヴォの岩窟教会群はその形状・素材・原料において真正性が保たれている。13~14世紀の貴重な壁画群に緊急の保全作業を施し、聖母聖堂の壁画については洗浄・安定化を進め、その後公開された。こうした作業は最小限の修正とオリジナルの最大限の維持をコンセプトに実施されている。

20世紀初頭の岩盤の崩落によって埋もれていた大天使聖ミハイル礼拝堂の13世紀の天井画が発見・救出され、新しい岩盤に移された。また、同じく崩落した聖テオドル聖堂の14世紀の壁画の第1段階の作業も完了している。

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