リトミシュル城

Litomyšl Castle

  • チェコ
  • 登録年:1999年
  • 登録基準:文化遺産(ii)(iv)
  • 資産面積:4.25ha
  • バッファー・ゾーン:118.13ha
世界遺産「リトミシュル城」、中央がリトミシュル城の城館、その右が醸造所と厩舎。下の双塔は聖十字架発見教会
世界遺産「リトミシュル城」、中央がリトミシュル城の城館、その右が醸造所と厩舎。下の双塔は聖十字架発見教会
世界遺産「リトミシュル城」、城館の南ファサード。3階部分にアーケードが見える
世界遺産「リトミシュル城」、城館の南ファサード。3階部分にアーケードが見える (C) Herbert Frank
世界遺産「リトミシュル城」、城館から眺めた醸造所(左)、聖十字架発見教会(中央)、リトミシュル地域博物館(右)
世界遺産「リトミシュル城」、城館から眺めた醸造所(左)、聖十字架発見教会(中央)、リトミシュル地域博物館(右)(C) Michal Bělka
世界遺産「リトミシュル城」、城館中庭の3層アーケード
世界遺産「リトミシュル城」、城館中庭の3層アーケード (C) KKDAII

■世界遺産概要

リトミシュル城はチェコ中部、ボヘミア-モラヴィア国境のボヘミア側に位置する城で、16世紀に両地方を結ぶ要衝にヴラティスラフ家によって築かれた。ルネサンス様式の構造・外観と後期バロック・クラシック様式の内装を持つ美しい城で、中央ヨーロッパの城郭・宮殿建築に多大な影響を与えた。

○資産の歴史

リトミシュルの名前は6世紀にボヘミアに入植したとされるスラヴ人の名前に由来する。この地はボヘミア-モラヴィアを結ぶトルスチェニツェ街道と呼ばれる交易路上に位置し、10世紀頃にはリトミシュルの丘の上に街道を守る要塞が築かれていたという。リトミシュル城が立つ場所には小さな教会堂が立っており、12世紀前半にプレモントレ修道会の修道院が建設された。交易と修道院によって町は発展し、1259年に都市に昇格。1344年にはボヘミア王カレル1世(神聖ローマ皇帝カール4世)によってリトミシュル司教区が設置され、修道院は廃止された。

修道院跡には城が築かれたが、1419~36年のフス戦争、特に1425年のフス派によるリトミシュル包囲によって町は徹底的に破壊された。戦後、神聖ローマ皇帝ジギスムントはポストゥピツェのコストゥカ家にリトミシュルの復興を任せるが、1460・1546・1560年と続いた大火によってほぼ焼失した。

1567年、神聖ローマ皇帝でありボヘミア王でもあるマクシミリアン1世の許可を得てリトミシュルはペルンシュテインのヴラティスラフ家の所領となった。領主となったボヘミア首相ヴラティスラフ2世・ペルンシュテインはイタリア・ルネサンスの建築家ジョヴァンニ・バティスタ・アオスタリを招集し、リトミシュル城の建設を依頼。1568年に起工し、まもなく弟である建築家ウルリコ・アオスタリが加わり、1580年にほぼ竣工した。

リトミシュルは1649年にロプコヴィッツ家の手に渡り、トラウメンズドルフォヴェ家、ヴァレンシュタイン=ヴァルテンベルク家を経て1855年にトゥルン・ウント・タクシス家の所領となった。この間、1719年から建築家フランティシェク・マクシミリアン・カニカによって盛期バロック様式で、1792年からは建築家ヤン・クリシュトフ・ハビッヒによって後期バロック様式や新古典主義様式(ギリシア・ローマ時代のスタイルを復興したクラシック・リバイバル様式)で改修された。内装については大幅に改装されたが、構造と外観については基本的にルネサンス様式のまま維持された。

1824年3月2日、醸造所の醸造家夫妻の間に作曲家ベドジフ・スメタナが生まれた。一家は醸造所の1階で住み込みで生活を行っており、スメタナはその一室で誕生した。

1918年にチェコスロバキア共和国が独立し、第2次世界大戦後にリトミシュル城は共和国大統領令により国有化された。

○資産の内容

世界遺産の資産は城館を中心に醸造所や厩舎、ロード・ハウス(領主館)、馬車小屋、コテージ、フランス庭園、ザーメツカー公園(城の公園)などで構成されている。隣接する聖十字架発見教会やリトミシュル地域博物館はバッファー・ゾーンに位置している。

城館は「□」形で非対称の3階建てコートハウス(中庭を持つ建物)で、中庭を東西南北の4ウイング(翼廊/翼棟/袖廊。複数の棟が一体化した建造物群の中でひとつの棟をなす建物)で囲んでいる。中庭は北ウイングを除いて3層のアーケード(屋根付きの柱廊)で囲われており、北ウイングは『旧約聖書』やローマ時代の物語などを描いたズグラッフィート(漆喰を2層塗り、上層の漆喰を削って絵を描く技法)で覆われている。アーケードの1階の柱は角柱、2~3階はエンタシス(上部と下部がすぼまった柔らかい膨らみ)のある円柱で、2階はドーリア式、3階はイオニア式の柱頭を持つ。こうしたアーケードはイタリア中部の教会・宮殿建築でしばしば見られる「ロッジア」と呼ばれる柱廊装飾を持ち込んだもので、イタリア・ルネサンスの建築家であるアオスタリ兄弟によってもたらされた。

全体の構造はルネサンス様式で、内装は後期バロック様式や新古典主義様式でほぼ統一されており、「後期バロック・クラシック様式 "Late Baroque Classicism"」と呼ばれている。150人を収容する西ウイングの劇場は1796~97年に建築家イリー・ヨセフの設計で主に新古典主義様式で築かれたもので、画家ヨセフ・プラッツァーの絵画や装飾をはじめ当時の装飾や舞台装置・舞台装飾が手付かずで伝えられている。中央ヨーロッパでも特に歴史ある劇場で、毎年初夏に開催されているスメタナ国際オペラ・フェスティバルの会場でもある。これ以外に西ウイングには美術館が入っており、東ウイングには礼拝堂、北ウイングには小さな中庭があり、南ウイングはほぼアーケードで占められている。

城館の南に立つ醸造所は1630年代に建てられたもので、1728年の火災で焼失して再建され、さらに1775年の火災を経て後期バロック・クラシック様式で改修された。スメタナの父親がビール醸造家として働いていた場所で、一家が暮らしスメタナが生まれた当時の部屋や記念碑が残されている。醸造所に隣接する厩舎はルネサンス様式の建物で、馬車小屋や乗馬学校などはバロック様式となっている。一部は現在ホテルとして営業しており、宿泊することができる。

城館の西に広がるフランス式庭園は整然と区画された幾何学式庭園で、サレタと呼ばれるイタリアの小さな家屋やバロック彫刻の数々が備えられている。一方、城館の北に広がるザーメツカー公園は自然を模したイギリス式庭園だ。

■構成資産

○リトミシュル城

■顕著な普遍的価値

本遺産は登録基準(i)「人類の創造的傑作」、(vi)「価値ある出来事や伝統関連の遺産」でも推薦されていたが、それらの評価は認められなかった。

○登録基準(ii)=重要な文化交流の跡

リトミシュル城はイタリアで開発され、チェコで改良された結果、独創的で高品質な建築様式へと進化を遂げたアーケード式城郭建築の傑作であり、ほぼ完全に保存されている稀有な例である。

○登録基準(iv)=人類史的に重要な建造物や景観

リトミシュル城はルネサンス期の中央ヨーロッパの宮殿が後の時代の芸術運動の影響を受けて進化していく様子をきわめてよく保存している。

■完全性

貴族の宮殿・庭園・中庭・関連施設など、資産の顕著な普遍的価値を示す重要な要素はすべて含まれており、範囲とサイズも適切である。建造物群の物理的特性はいずれも脅威にさらされておらず、城館や建造物群の構造・外観・装飾といった特徴や、3層アーケードの回廊や壁画、後期バロック・クラシック様式の内装の芸術性の高さ、都市環境と建造物群の関係性や景観など、そのすべてが保存されている。資産は都市遺産保護区内にあり、保護区の外側をバッファー・ゾーンが取り巻いており、都市構造を安定させている。

■真正性

資産はもともと物理的に統合されており、城館と関連の建造物群は歴史的な環境を引き継いでおり、空間的に適切な関係を維持している。特定の時代を選択して保存する試みはなされておらず、数百年にわたる改修・改築や修復による有機的な進化を総合的に保持している。資産を特徴付ける城館中庭を飾るルネサンス様式のアーケードやズグラッフィート、ファサード・床・切妻の形状や装飾は本来のデザインを引き継いでおり、真正性は高いレベルで維持されている。修復についても遺産保護のための国際基準に則って行われており、伝統的な素材や技術を用いて適切に実施されている。

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